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まどみちお : ミニ英和和英辞書
まどみちお
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


まどみちお ( リダイレクト:まど・みちお ) : ウィキペディア日本語版
まど・みちお

まど・みちお(本名:石田 道雄〈いしだ みちお〉、1909年明治42年〉11月16日 - 2014年平成26年〉2月28日)は、日本詩人。25歳のときに北原白秋にその才能を認められ、33歳のときには太平洋戦争に召集された。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称される〔『続 まど・みちお全詩集』編集の市河紀子の言葉。〕。
== 経歴 ==
山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。その後、まども祖父のもとを離れて台湾へ渡った。
台北工業学校土木科に在学中、数人で同人誌『あゆみ』を創刊し詩を発表。卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが1934年〔ペンネームは新聞・雑誌に詩作品を積極的に投稿しはじめた24歳前後からと思われる。当時は旧かなで「まど・みちを」だった。「窓」のつもりあった。どうしてそうしたかは、まど自身「あまり憶えていませんねえ」と言う。同時期に投稿した句誌『層雲』(自由律俳句の荻原井泉水主宰)では、「石田路汚」という俳号だったという(『まど・みちお人生処方詩集』平凡社)。〕、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に応じて5篇を投稿、そのうちの2篇「ランタナの籬(かき)」「雨ふれば」が選者の北原白秋の目に止まり特選に選ばれたのをきっかけに詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。1936年には山口保治によって童謡『ふたあつ』が作曲された。その翌年には同人誌『昆虫列車』の創刊に参加し、1939年の廃刊まで活動する。39年に永山寿美と見合いして結婚。40年に長男の京(たかし)〔京は父をほとんど知らずに育ち、「見知らぬおじさんは優しい人だった」と書いている(『まど・みちお人生処方詩集』平凡社)。〕、47年に次男の修が生まれる。
1943年召集を受け帝国陸軍船舶工兵として在台湾の部隊に入営。マニラを皮切りに各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎える。日本に戻り、1948年には出版社に入社。雑誌『チャイルドブック』の創刊にたずさわり詩や童謡の発表をしながら子供のための雑誌や書籍の編集やカットに関わった。
1959年に出版社を退社した後は、詩・童謡・絵画に専念する。1963年にはそれまでに作った童謡を『ぞうさん まど・みちお子どもの歌一〇〇曲集』としてまとめる。その5年後、はじめての詩集となる『てんぷらぴりぴり』〔当初、出版社は童謡集を依頼したのだが、詩を書きためていたまどは詩集にしてくれないかと言った。童謡は「自分の中のみんな」が作り、詩は「自分の中の自分」が作ると語った(『まど・みちお人生処方詩集』平凡社)。〕を出版し第6回野間児童文芸賞を受賞。1976年、『まど・みちお詩集』(全6巻)によって第23回サンケイ児童出版文化賞を受賞。第1巻『植物のうた』は、日本児童文学者協会賞にも選ばれた。同年、川崎市文化賞を受賞。
会社を辞めてフリーになった後、密かに自己流で絵を描いていた。51歳の春からで半年で60枚を超え、55歳まで描いていた。100近くの超える絵があり、周南市美術博物館にほとんど全作品が寄贈され、「まど・みちおコーナー」で代わるがわる展示されている。この多くは『まど・みちお画集 とおいところ』に詩とともに紹介されている。
この頃は『《ぞうさん》まど・みちお 子どもの歌100曲集』の「はじめに」で「ツマラヌ童謡とはその歌詞が精神の高度の燃焼による所産とはいいがたい作、つまり詩ではない童謡のことです」と不満を募らせていた。子どもでも分かる、やさしい言葉で書かれた詩と違って、一面荒々しく塗りつぶしたような絵が多く、画面は削れ、波打っているものもある。童謡の創作がおそろかになるくらい絵に没頭した3年半の後、童謡を離れ、「ブドウのつゆ」などが入った『てんぷら ぴりぴり』など自由詩に活動を移した〔NHK日曜美術館」の「まど・みちおの秘密の絵」で2015年10月11日にまどの役を笹野高史が演じ、仲がよくて共通する部分も多かったという谷川俊太郎をゲストに放送された。〕。
その後の賞歴を箇条書きする。
*1979年 - 『風景詩集』により第22回厚生省児童福祉文化奨励賞。
*1980年 - 第23回日本児童文芸家協会児童文化功労賞。
*1981年 - 第4回巌谷小波文芸賞。
*1986年 - 『しゃっくりうた』により第35回小学館文学賞
*1992年 - まどの生誕地である山口県徳山市(当時)から、市民文化栄誉賞。
*1993年 - 1994年 - 『まど・みちお全詩集』(92年に理論社から出版、戦争協力詩2編を収録して巻末にその経緯を書いた)により第43回芸術選奨文部大臣賞および第40回産経児童出版文化賞大賞、第16回路傍の石文学賞特別賞。
*1994年 - 国際アンデルセン賞 (Hans Christian Andersen Award) 作家賞。
*1998年 - 第47回神奈川文化賞
*1999年 - 1998年度朝日賞
*2001年 - 『うめぼしリモコン』により第11回丸山豊記念現代詩賞
*2003年 - 第59回日本芸術院賞
1992年には、皇后美智子の選・英訳による『どうぶつたち』(''The Animals'') が日本およびアメリカで出版された。
1994年に受賞した国際アンデルセン賞作家賞は、“児童文学のノーベル賞”とも言われている重要な文学賞であり、日本人では史上初の受賞であった。
満90歳(1999年11月)を過ぎた頃からは、自らの「老い」を見つめた詩も増えているとされる〔『NHKスペシャル』(2010年1月3日放送済み)「ふしぎがり〜まど・みちお 百歳の詩〜」番組紹介 日本放送協会 2010年1月6日閲覧。〕。
2008年末、腰を痛めたのを機に入院したが〔、創作活動は続ける〔。
2009年、満100歳を迎えるにあたり、新作詩集2冊(『のぼりくだりの…』『100歳詩集 逃げの一手』)が11月に刊行されたほか、出身地の周南市ではさまざまな記念イベントが開催された。
2011年1月、NHKスペシャルでドキュメンタリー「ふしぎがり〜まど・みちお百歳の詩」が放送された。
2014年2月28日午前9時9分、老衰のため東京都稲城市の病院で死去した〔詩人まど・みちおさん死去 104歳、「ぞうさん」など 朝日新聞 2014年2月28日閲覧。〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「まど・みちお」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michio Mado 」があります。




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