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『みづうみ』は、川端康成の長編小説。現代仮名遣いでは『みずうみ』表記となる。川端の日本的鎮魂歌の路線とは異質で、発表当初、衝撃的な作品として受け取られ、好悪の分れた作品である〔中村真一郎「解説」(文庫版『みづうみ』)(新潮文庫、1960年。改版1991年)〕。気に入った美しい女を見かけると、その後を追ってしまう奇行癖のある男が、ある聖少女の美しい黒い目の中のみずうみを裸で泳ぎたいと願う物語。様々な女性への秘めた情念を、回顧、現実、妄想、幻想などの微妙な連想を織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、「永遠の憧れの姿」に象徴化させている〔。 1954年(昭和29年)、雑誌『新潮』1月号(第51巻第1号)から12月号(第51巻第12号)に連載され(全12回)、翌年1955年(昭和30年)4月15日に新潮社より単行本刊行された〔「解題」(『川端康成全集第18巻』)(新潮社、1980年)〕。その際に大幅な加筆訂正がなされ、連載第11回の後半と第12回の全文が削除されたが、この時に川端は当時の編集担当者へ未完作である旨を伝えたとされる〔。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版は1974年(昭和49年)のReiko Tsukimura(月村麗子)訳(英題:“The Lake”)をはじめ、各国で行われている。 1966年(昭和41年)に本作を原案とした映画『女のみづうみ』が岡田茉莉子主演で制作された。 == 作品構造の特徴 == 初出誌では、作品冒頭部と末尾が照応しており、円環構造となっていたが、単行本刊行に際し、連載第11回の後半と最終回の第12回の全文(2羽の鴬を鳥籠に戻せずに困っている久子の夢を見た5、6日後に、宮子のバッグを路上で奪う結果となった主人公が逃避行して信州の温泉場にいる展開)が切り捨てられたため、冒頭部の時空間に戻っていく円環構造が崩れ、未完のまま放置された作品となった〔月村麗子「川端康成著『みづうみ』の主題と手法」(解釈 1977年1月号に掲載。のち寧楽書房、1977年)〕〔田村充正「川端康成『みづうみ』の基礎研究――作品『みづうみ』はいかに構築されているか」(静岡大学人文論集、1996年)〕。 またそれ以外にも、第2章だけが主人公以外の視点となっていることや(宮子を視点人物にしている)、第3・4章が、流れる意識と幻視の主体である主人公が不在の時間に置かれていることなど、西欧の小説手法の観点から見た場合、語りの視点や構成に瑕瑾を残していると見なされる点が多くある〔原善「川端康成『みづうみ』論」(文芸空間 第3号 1979年12月号に掲載)。『川端康成の魔界』(有精堂、1984年)に所収。〕〔。しかし、それらの一切を補償しても余りあるような、日本の古典(和歌、連歌)からの影響の見える前衛的、幻視的な文体を確立しており、それが特徴となっている〔〔。 なお、川端康成は編集を担当した1961年(昭和36年)10月10日刊行の『湖』の「まえがき」で、湖について以下のように述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「みづうみ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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