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ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐、猿、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山鯨(やまくじら)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もある〔猪は7月、鹿は10月のそれぞれ種札(10点札)の絵柄で存在する。ただし、鹿は10月が紅葉なので名前と絵柄で符合するのだが、猪の札がある7月は萩の花で一方の牡丹は6月の花であり、また6月の種札は蝶であるため符合しない。一方、猪については「獅子に牡丹」という成句の獅子を猪に置き換えたものとの説もあるがこちらは鹿も「しし」と読む。〕。 江戸では両国広小路〔現在の中央区東日本橋2丁目。なお、ほど近い墨田区両国で、1718年創業の「もゝんじや」が2010年現在も営業している。 〕、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言える。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。 百獣屋の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになった〔村上健司著、『妖怪事典』、毎日新聞社、2000年、335頁。ISBN 4620314285〕という説がある。 彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった〔国宝彦根城築城400年祭「列伝 井伊家十四代 第8回」〕〔〕。 == 小説などへの登場 == * 鳥羽亮著『ももんじや 御助宿控帳』、朝日文庫、2009年、ISBN 978-4022645081 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ももんじ屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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