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アイゴスポタモイの海戦(英:Battle of Aegospotami)は紀元前405年にアテナイ艦隊とスパルタ艦隊との間で戦われたペロポネソス戦争最後の海戦で、(今日のトルコ領ゲリボル半島)を流れるの河口付近で行なわれた。この戦いでリュサンドロス率いるスパルタ艦隊はアテナイ艦隊を壊滅させた。この敗北によって穀物を輸入に頼りきっていたアテナイは穀物輸入のルートを完全にスパルタ側に押さえられることになったため、この戦いはペロポネソス戦争におけるスパルタ側の決定的な勝利となった。 == 背景 == 紀元前406年のアルギヌサイの海戦でのスパルタの敗北後、キオス人およびペルシアの王子キュロスからスパルタにノティオンの海戦でアテナイ艦隊に勝利したリュサンドロスを艦隊司令官とするよう要請が来た。ところが、スパルタでは同じ人物が二度艦隊を指揮するのは禁止されていたためスパルタ人はリュサンドロスを副司令官、アラコスを艦隊司令官とした。だが、事実上はリュサンドロスが指揮権を握っていた〔クセノポン, II. 1. 6-7〕。 翌紀元前405年、リュサンドロスはエフェソスに来て、キオスにいたエテオニコスの艦隊を呼び寄せ、アンタンドロスで新たに艦船を建造した。そのための軍資金を得るためにリュサンドロスは親しい間柄であったキュロスの許に伺候し、軍資金を得た。その後もリュサンドロスはキュロスの熱心な財政支援を得て、その潤沢な資金を用いて艦隊を強化・拡張した〔ibid, II. 1. 10-14〕。 その後リュサンドロスは沿岸のアテナイの同盟国との戦いを開始した。まず彼はサモスのアテナイ艦隊を陽動するためにカリアのケドレイアイへと向って同地を攻略した。その次にヘレスポントスへと北進し、アビュドスを経由した後陸軍と協力してアテナイの同盟国で戦略上の要地であるランプサコスを攻略した〔ibid, II. 1. 15-19〕。これによって、彼はボスポロスからのアテナイの穀物輸送ルートを押さえた。そのため、アテナイ側は飢餓を避けるためにはリュサンドロスを倒す必要に迫られた。 メナンドロス、テュデウス、ケフィソドトスら率いるアテナイ艦隊180隻はリュサンドロス目指して進み、エライウス、セストスを経由してランプサコスの対岸のアイゴスポタモイに停泊した。アテナイ艦隊は翌日の日の出と共に出撃してきたが、リュサンドロスはそれには応じなかったのでアテナイ艦隊は暗くなり始めるとアイゴスポタモイへと引き上げた。敵の兵員が上陸するのを見ると彼は足の速い船を偵察に出してその様子を報告させた。これが四日間続いたため、アテナイ軍はリュサンドロスを侮って敵を挑発するようにさえなっていた〔ibid, II. 1. 20-24〕。 その時、トラキアに亡命していたアテナイの政治家アルキビアデスがアテナイの将軍たちに忠告をしてきた。彼はアテナイ艦隊の停泊している地点は港がなく、町から離れているために食料を遠く離れたセストスから輸送しているのに対し、敵の停泊地は港があり、町にも近いために物資の補給に都合が良いことから、セストスの港へと移動するべきだと言った。しかし、将軍たちは現在指揮権を持っているのは自分たちで彼ではないからと言って忠告に耳を貸さなかったので、アルキビアデスは帰った〔ibid, II. 1. 25-26〕。ディオドロスによれば、アルキビアデスは将軍たちに指揮権を共有させてくれたら、彼が好を結んでいたトラキア人の王メドコスとセウテスから軍勢を借りてはせ参じると提案したが、アテナイの将軍たちはアルキビアデスの提案を受けるにしても、もし成功したらアルキビアデスの手柄になり、失敗すれば彼らの責任に成ると考え、アルキビアデスの提案を拒絶した〔ディオドロス, XIII. 105〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイゴスポタモイの海戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Aegospotami 」があります。 スポンサード リンク
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