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アイザック・シェルビー : ミニ英和和英辞書
アイザック・シェルビー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アイザック・シェルビー : ウィキペディア日本語版
アイザック・シェルビー[ちょうおん]

アイザック・シェルビー(Isaac Shelby、1750年12月11日-1826年7月18日)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州の初代と第5代の知事であり、バージニア州ノースカロライナ州の各州議会議員を務めた。ダンモアの戦争アメリカ独立戦争および米英戦争では軍人でもあった。知事である間に、自らケンタッキーの民兵隊を率いてテムズの戦いで勝利し、その功績でアメリカ合衆国議会から金メダルを貰った。9つの州の郡や都市および軍事基地がシェルビーに因んで名付けられた。ジョン・ディキンソンの「自由の歌」を好んだ事は、ケンタッキー州が「団結すれば立ち上がり、分割すれば倒れる」というモットーを採用した理由だと信じられている。
シェルビーの軍歴は、ダンモアの戦争で唯一の大きな戦闘であるポイントプレザントの戦いで、父の中隊の副隊長を務めたときに始まった。熟練した木樵および測量士という評判を得て、独立戦争の初期は大陸軍のために物資を集めて過ごした。戦争の後半ではシェルビーとジョン・セビアがノースカロライナに侵入したイギリス軍に対してアパラチア山脈を越える遠征隊を率いた。キングスマウンテンの戦いでイギリス軍が敗北したときは重要な役割を果たした。その功績にたいしてノースカロライナ議会から儀式用剣と1組の拳銃を贈られ、「オールド・キングスマウンテン」という渾名は一生ついて回ることになった。
戦後シェルビーはその軍隊における功績に対して贈られた土地のあるケンタッキーに移り、ケンタッキーがバージニアの郡部からアメリカ合衆国の独立した州に移行することに関わるようになった。その英雄像によって州内市民に人気があり、1792年に州選挙人団が全会一致でシェルビーを初代知事に選んだ。シェルビーはインディアンの攻撃から州を守り、最初の州政府を組織した。市民ジュネ事件を梃子にして、ジョージ・ワシントン政権を説得し、ミシシッピ川におけるスペインとの自由な貿易協定を結ばせた。
シェルビーは1期目の知事職を辞めた後、公的生活から身を退いていたが、差し迫った米英戦争のために政界に呼び戻された。ケンタッキー人はシェルビーに再度知事選に出馬し、予想される紛争時に指導してくれるよう促した。シェルビーは容易に再選され、ウィリアム・ハリソン将軍の要請でテムズの戦いでケンタッキー州部隊を指揮した。戦争が終わったときにジェームズ・モンロー大統領からアメリカ合衆国陸軍長官になるよう提案があったが、これを辞退した。シェルビーはその最後の公的任務として、アンドリュー・ジャクソンとともにチカソー族インディアンからジャクソン買収と呼ばれる土地購入を交渉する委員となった。1826年7月18日、シェルビーはケンタッキー州リンカーン郡で死んだ。
== 初期の経歴 ==
シェルビーは1750年12月11日メリーランド植民地フレデリック郡(現在はワシントン郡ヘイガーズタウン近くで生まれた〔Harrison, p. 815〕〔。1735年ウェールズのトレガノンから移民して生きたエバンとレティシア・コックスのシェルビー夫妻の3人目の子供で次男だった〔W. Powell, p. 326〕。その家族は伝統的にイングランド国教会に忠実だったが、イギリス領アメリカに来た後で長老派教会員となった。これはアイザック・シェルビーがその生涯を通じて奉じる宗派になった〔。
シェルビーはその生まれ故郷にある学校で教育を受けた〔NGA Bio〕。父のプランテーションで働き、時には測量士としての仕事を見付けた〔R. Powell, p. 14〕。18歳の時、フレデリック郡の副保安官に指名された〔〔Townsend, p. 16〕。シェルビーの父は、ポンティアックの反乱で儲かる事業だった毛皮貿易が混乱させられたときにかなりの額の金を失い、その2年後には家が焼けて業務記録が無くなった〔Wrobel, p. 10〕。その結果1770年12月に、家族ごとテネシー州ブリストルに近い地域に移転し、そこで砦と交易基地を建設した〔Wrobel, p. 11-12〕。シェルビーとその父はそこで3年間牛を飼った〔。
植民者とアメリカ・インディアンとの間の境界紛争であるダンモアの戦争の時、シェルビーはウィリアム・プレストン大佐からバージニア民兵隊の中尉に任官された〔Draper, p. 412〕。父の指揮するフィンキャッスル郡中隊の副隊長として1774年10月10日に雌雄を決するポイントプレザントの戦いに参戦した〔。若いシェルビーはこの戦闘におけるその技量と勇敢さで称賛された〔。勝利した民兵隊は戦場跡にブレア砦を建設した〔。民兵隊はそこに駐屯し、シェルビーはその副指揮官となったが、1775年7月にダンモア卿が近付きつつあるアメリカ独立戦争で植民地反逆者達がその砦を使うことを恐れ、砦の破壊を命じた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アイザック・シェルビー」の詳細全文を読む




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