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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )は日本の元歌手、俳優。本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。 == 略歴 == 1933年、香港(当時の英国領)生まれ。父親が日本人(石油会社の役員)で母親がスペイン人のハーフ。外地生まれで、なおかつ混血児であったこともあり、戸籍上は1940年4月15日生まれ・父方の祖父母の第三子として届出がなされているそうである。 三歳の頃に母を亡くす。父の仕事の都合で、香港、大連、上海、マニラを転々としながらも不自由ない裕福な幼少時代を過ごす。 1943年、父がバタヴィアへ出征することになり、父方の祖母と大阪へ渡る。1944年、香川県へ集団学童疎開。 1945年3月、大阪に一人残っていた祖母が空襲で亡くなったため、事実上孤児となり、長野県飯田市の果樹園へ引き取られる。父方の親類が長崎にいたそうだが、付き合いは無く、また8月9日の原爆投下によって全員亡くなったそうである。 1948年、消息不明だった父が南方での服役を経て復員。果樹園を出、父との同居を夢見ながら、大宮のパン屋に住み込みで働く。だが、その3ヵ月後、刑務所生活で体が弱っていた父はあっけなく亡くなった。それから6年間、パン屋・菓子屋・運送屋・ボクシング選手・競輪選手・ハンコ屋等さまざま職業を転々とする。 1953年、流し(米軍キャンプでも歌っていた)に転向していた頃、仲間に勧められ、テイチクレコードの歌手採用試験を受け合格し、黒田春夫という芸名で「裏街ながしうた」でデビューした。 第二の田端義夫というキャッチフレーズで歌謡曲歌手として売り出すテイチクと、ジャズ歌手として売っていきたいジョージの主張が食い違ったこと、レコードも売れなかったことから、歌謡曲である「心の十字路」、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの伴奏による「オー・ハッピデー/涙のチャペル」など数枚を吹き込んだだけで、テイチクを退社し、再び、流しの歌手として日本各地を回る。 1959年、大阪最大のナイトクラブである「クラブ・アロー」に、外人歌手の代理として出演依頼が来てステージに立ったところ、そのステージが大盛況であったことから、支配人である古川益雄に見込まれ、アロー専属歌手となる。その頃、森繁久彌に見込まれ、森繁劇団の大阪・新歌舞伎座公演に流し役で出演。 1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。そして再びテイチクとレコード契約を結ぶ。 NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。 1961年にはドドンパ・ブームを起こす。フィリピン起源のオフ・ビート・チャチャチャを、比人バンドが持ち込み、それにジョージの仲間であるクラブアローのバンドマンが目を付け、計画的に流行させたものである。ただ、三拍目を三連音符に換え、ドドンパと命名したのはジョージである。このことを考慮すると、アイ・ジョージはドドンパの生みの親といっても過言ではない。 1963年、民音公演で「戦友」を反戦の意味合いで歌唱。これによって当時の学生が反戦の象徴曲として歌い始め、やがて当時軍人だった世代も巻き込み、軍歌ブームが起きる。 外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として長年親しまれている。 1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったが興行的には失敗に終わった。 1969年にはスペイン人等を集めたバンド/ザ・ジャパニーズを結成。 2004年末、週刊ポストに、『世界規模のチャリティCD製作を謳い集めた金2億5000万の用途不明』という見出しの記事が出た。 その記事によれば、ジョージが集めた金は20億以上であるが、その計画が1990年頃立ち上げた計画が一向に進まない上、調査の結果進展した痕跡も無いことから不信感を示し、告訴を検討している実業家が多数いるという記事だった(2億5000万は告発した実業家の投資額)。 そのチャリティCDは、ジョージの自作曲をクインシー・ジョーンズ、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、スティーヴィー・ワンダー等も参加という気宇壮大な計画であり世界規模で300億の売り上げを見込んでいるとのこと。 当時マイアミ滞在中であったジョージ本人の話では、「彼ら(スポンサーの実業家たち)とは製作過程でボタンの掛け違いが生じてしまった。(CDは)遅れ遅れではあるが来春できる。大物プロデューサーは集まって来ているし、ビッグスターとも多数接触している。参加するのは誰と言われても、いい方向でやっているとしか言えない。レコード会社との交渉はこれからだ。(自身の)年は年だが健康そのもの、悪いところはまったく無く、くたばる気がまったくしない。このプロジェクトは石にかじりついてでも仕上げる」と豪語していたが、本人が語った来春(2005年春)はおろか現在まで完成したというニュースは伝わってはいない。 その後も週刊誌などマスコミに名前が出るケースは主に金銭トラブル(疑惑)の中心人物としてであり(2007年には『週刊新潮』の誌上に登場)、その都度、本人は潔白を主張している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイ・ジョージ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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