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アイユーブ朝(、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラーム王朝〔太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁〕。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する〔〔佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁〕。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、73頁〕。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した〔。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁〕。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。 == 歴史 == === セルジューク朝、ザンギー朝時代 === 12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブとシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、21頁〕。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した〔。 1131年にセルジューク朝のスルターン・マフムード2世が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走するモースルの領主イマードゥッディーン・ザンギーに助けを与えた〔前嶋『イスラムの時代』、295-296頁〕。1137年/38年にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、20-22,28頁〕。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、1139年にはバールベックの知事に任命された。 1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55頁〕。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55-56頁〕。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、51-52頁〕。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった〔佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、56頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイユーブ朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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