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アイン・ランド : ミニ英和和英辞書
アイン・ランド[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

アイン・ランド : ウィキペディア日本語版
アイン・ランド[らん]

アイン・ランド(Ayn Rand、/ˈaɪn ˈrænd/;〔; 〕、1905年2月2日 - 1982年3月6日)は、ロシア系アメリカ人の小説家、思想家〔; ; ; .〕、劇作家、映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム()。2つのベストセラー小説『水源』(''The Fountainhead'')および『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')で知られる。また自ら「客観主義」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。ロシアで生まれロシアで教育を受け、1926年にアメリカ合衆国に移住した。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(''The Fountainhead''、1943年)で名声を得た。
1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においてはInitiation of Force(自分の側からの強制力の行使)を非難し〔; ; ; ; 〕、集産主義および国家主義に反対した。また無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会システムと信じ、支持した。芸術においてはロマン主義写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、ほとんどの思想家および思想的伝統を辛辣に批判した〔; 〕。
文芸評論の世界では、ランドのフィクションはほとんど認められていない。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般およびアカデミズム界に広めることを目指す運動である。リバタリアンおよびアメリカ保守主義者の間では、ランドは大きな影響力を持ち続けている〔; 〕。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派ユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った〔; ; 〕。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。
その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った。
ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった〔; 〕。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキーヴィクトル・ユーゴーエドモン・ロスタンフリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した。
卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された〔; 〕。ランドも1924年に大学を卒業した。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった。
この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形〔; 〕、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 עין」(アイン)から取った〔ランド自身は「アイン」の語源はフィンランド語であると述べている。しかしこの点について疑問をさしはさみ、ヘブライ語のあだ名から来たのではないかと述べている伝記も存在する。に詳しい議論がある。〕と言われる。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アイン・ランド」の詳細全文を読む




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