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アウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ(August Aleksander Czartoryski,1697年11月9日 - 1782年4月4日)は、ポーランド・リトアニア共和国の大貴族(マグナート)、公。チャルトリスキ家を繁栄に導いた。 リトアニア大法官カジミェシュ・チャルトリスキ公の次男。アウグストは1729年にポーランド軍少将に叙され、1751年にはルーシ県知事となり、またアダム・ミコワイ・シェニャフスキの一人娘で女子相続人のマリア・ゾフィア・シェニャフスカと結婚したことにより、一族に莫大な富をもたらした。1750年から1758年までポドリアの王領地総代官を務め、マルタ騎士団騎士となる栄誉に浴した。さらにワルシャワ、コシツェジナ、ルボフニア、カウシュ、ラトヴィツ、ルツィン、ヴァヴォルニツァ、クピスキの代官でもあった。 アウグストは1733年のポーランド継承戦争においてスタニスワフ・レシチニスキを支援し、続くアウグスト3世の治世では兄ミハウ・フリデリク、義弟スタニスワフ・ポニャトフスキとともに改革色の強い政治党派「ファミリア」を形成し、その指導者となった。1763年から1764年までの空位期、彼は自分自身または長男のアダム・カジミェシュに国王の座をもたらすべく熱心に運動したが、王位についたのは甥のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキだった。1764年から1766年までアウグストは王国総連盟の議長を務め、1764年には召集軍隊の臨時司令官(レギメンタシュ)に任じられた。重職にあって甥である国王による共和国の政治改革を支援し、「黄金の自由」を保守しようとしたラドム連盟に敵対した。 娘のイザベラは王冠領宮内長官スタニスワフ・ルボミルスキと結婚した。 == 叙勲 == *白鷲勲章…1731年7月23日 *聖スタニスワフ勲章 *聖アンジェイ勲章 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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