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アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい、、、)は、1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。 フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん、、、)とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた〔Chandler(1995), p. 432–433.〕。 1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。 ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。 ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。 フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。 だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者〔志垣(1996),p.130.〕と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。 アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は翌1806年の対プロイセン戦役である。 ==背景== 1792年に勃発したフランス革命戦争以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。戦争5年目の1797年にフランス共和国は第一次対仏大同盟を屈服させた。1798年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランス統領政府の敵として残された。1802年にフランスとイギリスはアミアンの和約を結んだ。 この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。一方、ナポレオンはイギリス軍がマルタから撤収しないことに腹を立てていた〔Chandler(1995),p. 304.〕。この緊張状態はナポレオンがハイチ革命を鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する〔Chandler(1995),p. 320.〕。1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。 1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。イギリス首相ウィリアム・ピットは1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた〔イギリスはバルト海経由で木材、タール、麻といった生活必需品を輸入しており、ロシアによるバルト海支配は好ましいものではなかった。加えてイギリスはロシアの地中海進出を阻止すべくオスマン帝国を支援していた。一方、フランスによるドイツ諸邦再編はロシアとの協議なく行われており、ナポレオンによるポー渓谷併合は両国関係を険悪化させた。Chandler(1995),p. 328. 〕。二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった〔Chandler(1995),p. 331.〕〔長塚(1986),p172.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アウステルリッツの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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