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アウンサン・スーチー : ミニ英和和英辞書
アウンサン・スーチー[あうん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

アウン : [あうん]
  1. (sanskr:) (n) Om 2. Aun 3. syllable representing the primordial trinity of Vishnu, Shiva and Brahman, (sanskr:) (n) Om/Aun/syllable representing the primordial trinity of Vishnu, Shiva and Brahman
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アウンサン・スーチー ( リダイレクト:アウンサンスーチー ) : ウィキペディア日本語版
アウンサンスーチー[ちょうおん]

アウン・サン・スー・チービルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည် (画像による標示:x18px)、ラテン文字転写: Aung San Suu Kyi、国際音声記号 1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、連邦議会議員、国民民主連盟中央執行委員会議長。2016年3月30日ティンチョーを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)、さらに新設の国家顧問にも就いた。
ビルマ独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウン・サン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる〔「アウンサンスーチー氏:仏教思想に基づいた非暴力、大学講演で訴え 「他者を愛し、慈しむ」」 毎日新聞2013年04月16日朝刊〕。使用言語はビルマ語英語フランス語日本語〔Aung San Suu Kyi: A Biography, p. 142〕。ただし、2013年訪仏時にはフランス語で講演を行っているが、同年の訪日時には、英語で記者会見を行っている〔「ミャンマー国民民主連盟党首アウンサン・スーチーさん会見(日本語同時通訳版)」 〕〔「アウン・サン・スー・チー氏、パリ名誉市民に 仏語でスピーチ」 〕。
日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「スー・チー」「スー・チーさん」などと表記されることもあるが、原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する(後述
ソウル大学校名誉教育学博士(2013年)、モナシュ大学名誉法学博士(2013年)、オーストラリア国立大学名誉文学博士(2013年)、シドニー大学名誉法学博士(2013年)、シドニー工科大学名誉博士(2013年)、ローマ名誉市民(2013年)、ボローニャ名誉市民(2013年)、ボローニャ大学名誉哲学博士(2013年)、京都大学名誉フェロー(2013年)、龍谷大学名誉博士(2013年)、ワルシャワ名誉市民(2013年)、オックスフォード大学名誉私法学博士(2012年)、パリ名誉市民(2012年)、香港大学名誉法学博士(2012年)、ヨハネスブルグ大学名誉博士(2010年)、カナダ名誉市民(2007年)、ルーヴァン・カトリック大学名誉博士(2006年)、アメリカン大学名誉博士(1997年)〔産経新聞「スー・チー氏、京都大なども訪問」2013年4月15日号〕〔「スー・チー氏、英オックスフォード大から名誉博士号」 2012年06月21日 12:03〕、ノーベル平和賞受賞(1991年)、オックスフォード大学名誉フェロー(1990年
ロンドン大学東洋アフリカ研究学院名誉フェロー(1990年)。
== 来歴 ==
1945年6月イギリス統治下のビルマ首都ラングーンで生まれた。当時は、ビルマの戦いの末期で、敗勢の日本を裏切った父アウンサンらの攻勢もあり、同年5月にラングーンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていたビルマ国も崩壊。日本統治時代が終わりイギリスの支配に戻ったばかりのころだった。日本の降伏後、1947年に父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺される。〔、『アウン・サン—封印された独立ビルマの夢』、岩波書店、1996 、140–191 頁〕以降ラングーンで元看護師の母親キンチー(:en:Khin Kyi)と2人の兄とともに暮らし、母からテーラワーダ仏教の厳しい教育を受けた。
次兄アウンサンリンが8歳の時、自宅庭の池で溺死したのち、ラングーン市内のインヤー湖畔に転居した。なお長兄のアウンサンウー(:en:Aung San Oo)は、のちにサンディエゴ移民として移り、アメリカ合衆国の市民権を取得した。妹の政治活動には反対しているとされる。
スーチーは、ラングーンの聖フランシス修道会学校を経て、ダゴン郡区にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト英語学校(現ダゴン第一高等学校、:en:Basic Education High School No. 1 Dagon)に通った。同校の同級生に、のちにスーチー側近となるティンチョーがいた。
1960年に母親のキンチーが、ウー・ヌ政権で駐インド兼駐ネパール特命全権大使に着任すると、スーチーは母に伴いニューデリーに移り、同地のキリスト・メリー修道会学校に通った。1962からデリー大学:en:University of Delhi)レディ・スリラム・カレッジ(:en:Lady Shri Ram College for Women)で政治学を学び、1964年に卒業。インドでは、ジャワハルラール・ネルーの家族などと親交し、マハトマ・ガンディー非暴力不服従運動の影響を受けたとされる。
1964から1967年までイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ(:en:St Hugh's College, Oxford)哲学政治経済学部(PPE、:en:Philosophy, Politics and Economics)で哲学・政治学・経済学を学ぶ。1967年に学士号を取得後、ビルマ政治史担当の助手に就任しヒュー・ティンカー:fr:Hugh Tinker)教授に師事。1968年には同大学で政治学修士号を取得した〔 Aditi Phadnis. "Much warmth, some restraint at Manmohan's meeting with Suu Kyi". Business Standard. Retrieved 30 May 2012.〕。なお1990年にはオックスフォード大学名誉フェローに選出された。また1993年にはオックスフォード大学名誉博士の授与を打診されたものの出国できず断念。その後2012年に名誉博士号を取得した〔「スー・チー氏、英オックスフォード大から名誉博士号」 2012年06月21日 12:03〕。
大学卒業後、友人のタンイー(:en:Than E)とともにニューヨークで暮らし、1969年からニューヨーク大学大学院で国際関係論を専攻してビルマ政治史が専門のフランク・トレイガー(Frank Trager)教授に師事したが、中退し、1969-1971年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補を務める〔Ma Than E, “A Flowering of the Spirit: Memories of Suu and Her Family”, in Aung San Suu Kyi (edited by Michael Aris), 1991, Freedom From Fear and Other Writings, Penguin Books, pp. 250–251.〕。1972年にオックスフォードの後輩で、当時ブータン在住だったチベット研究者のマイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、国際連合事務局を退職し、専業主婦となった。1972年から73年までブータン外務省研究員。1973年に長男アレキサンダー(:en:Alexander Aris)を、1977年に次男キムをもうける。
オックスフォード大学クイーン・エリザベス・カレッジで研究を再開し、1975年から77年までオックスフォード大学ボドリアン図書館編纂研究員を務めた。1985年から87年までロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究生を務め、ビルマ文学とナショナリズムの関係を研究し、1988年にSOASでビルマ文学修士号を取得した〔「SOAS alumna Aung San Suu Kyi calls for 'Peaceful Revolution' in Burma」 SOAS〕。また父の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけ日本語を習得。その後1985年10月-86年7月までの約9ヶ月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学学長)らである。またシムラーでインド教育省Indian Institute of Advanced Studies(IIAS)特別研究員を2年間務めたほか、ビルマ連邦政府でも勤務した。1986年7月から10月までヤンゴンの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った〔根本敬「アウンサンスーチーの思想と行動」 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アウンサンスーチー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Aung San Suu Kyi 」があります。




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