|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
アエリア・カピトリナ()は、ローマ皇帝ハドリアヌスの治世に発生したバル・コクバの乱の後、ユダヤの痕跡を一掃する目的でローマ様式に再建された植民市エルサレムの新名称〔「アエリア・カピトリナ」長窪(2009) pp35-36〕〔立山(1993) p56〕。 == 前史 == 紀元前1000年頃〔関谷(2003) p676〕〔月本(2005) p20〕、エルサレム〔伝統的には「平和の町」の意とされるが、「シャレム(神)の土台」とする説もある。〕はダビデ王によってユダヤ国家(イスラエル王国)の首都とされ〔関谷(2003) p4〕、息子ソロモンによって神殿が築かれて以来、ユダヤ民族の宗教・政治・経済・文化の中心地であった〔「エルサレム」長窪(2009) p113〕〔「神殿」長窪(2009) pp255-256〕。しかし王国の分裂、アッシリア及び新バビロニア王国の侵略により国家は滅亡に至る。その後もアケメネス朝、マケドニアのアレクサンドロス大王など外来の様々な勢力による支配を受けた。 紀元前142年、ハスモン朝として再びユダヤ国家が成立、ダビデ時代の版図を回復するまでに繁栄するが、やがて紀元前1世紀中頃に中東へ進出してきたローマの介入を受け、傀儡と化す〔「ハスモン朝」長窪(2009) pp372-373〕〔月本(2005) p38〕。混乱の中で台頭したイドマヤ人のヘロデはローマの有力者達を相手に巧みに立ち回り、紀元前37年にローマの後援を得てヘロデ朝を建国する。ヘロデはその後もほぼ同時期に帝政へと移行したローマとの友好関係を維持し続け、初代皇帝の座に就いたアウグストゥス(在位:紀元前27年-14年)からは「カエサルの友人」〔「ヘロデ(大王)」長窪(2009) p453〕とも呼ばれるまでにより絶大な信頼を勝ちとり、ユダヤの王(藩属王)として君臨する。ヘロデの死後(紀元前4年)、ユダヤは3人の息子達に割譲されることになるが、西暦6年にはローマ属州(ユダヤ属州)に編入される。 また、エルサレムでナザレのイエスが活動するもこの頃である。イエスの教えはやがて弟子達により広まり、ユダヤ教からキリスト教として独立・発展していった〔月本(2005) p40〕。本稿ではこれ以降、「ユダヤ人」を「ユダヤ教を奉ずる者」として記述する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アエリア・カピトリナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|