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アキアクリークの戦い()は、南北戦争開戦直後の1861年5月29日から6月1日に、バージニア州のスタフォード郡で起きた北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。南軍は北軍の艦船や商船がチェサピーク湾に入り、ポトマック川下流を上がってこないよう、また防衛のために、岸に幾つかの砲台を築いた。アキア・クリークの砲台はそこにある鉄道終着駅の防衛も兼ねていた。北軍は南部州海岸、特にチェサピーク湾港の封鎖のためにこれら砲台を破壊し取り除こうとしていた。この戦闘そのものは決着が付かなかった。両軍はほとんど損傷を与えられず、双方に大きな損失は生じなかった。北軍の艦艇は南軍をその陣地から排除できず、守備隊に損傷を与えられず、砲台にも重大な被害を及ぼせなかった。砲台に入っていた南軍は北軍とその艦船に重大な損傷を与えられなかった。この戦闘から間もない1861年7月7日日曜日、南軍はアキアランディング砲台沖で初めて機雷を使ったが成功しなかった。1862年3月9日、北軍による半島方面作戦による脅威に対応するために、南軍はこの砲台から部隊を移動させ、砲台を放棄することになった。アメリカ合衆国国立公園局は、この戦闘を南北戦争の主要戦闘384件の1つに加えている〔http://www.nps.gov/history/hps/abpp//battles/bycampgn.htm〕。 == 背景 == バージニア州は1861年5月23日に住民投票を行うことになっていたが、4月17日に開催されたアメリカ合衆国からの脱退を問う会議で、脱退に賛成票を投じ、実質的に脱退していた。それはサムター砦の守備隊が南軍に降伏した3日後、エイブラハム・リンカーン大統領が反乱の鎮圧のために志願兵応募を呼びかけた日から2日後のことだった〔Hansen, Harry. ''The Civil War: A History.'' New York: Bonanza Books, 1961. p. 34〕。4月22日、バージニア州知事ジョン・レッチャーがロバート・E・リーをバージニア州陸軍と海軍の総司令官に少将の位と共に任命した〔Hansen, 1961, p. 68〕。リー将軍はバージニア州海軍のウィリアム・F・リンチ大佐を派遣して、ポトマック川の防衛できる地点を調べ、北軍の艦船が川を航行するのを妨げるために砲台を築く手段を採らせた〔Scharf, John Thomas. ''History of the Confederate States Navy From Its Organization to the Surrender of Its Last Vessel'' . New York: Rogers & Sherwood, 1887. . Retrieved February 1, 2011. p. 94〕。4月24日、バージニア陸軍工兵のトマス・H・ウィリアムソン少佐と、バージニア州海軍H・H・ルイス海軍大尉が、アキア・クリークの岸を調べ、砲台を築くための最良地点としてスプリットロック・ブラフを選定した。そこからは十分な口径の大砲があれば水路を支配できるからだった〔Scharf, 1887, p. 95〕。 4月27日、リンカーン大統領は南軍に対する海上封鎖をバージニア州やノースカロライナ州の海岸を含むように拡大させた。これら2州は既にアメリカ連合国に加盟する手続きを採っていた〔Long, E. B. ''The Civil War Day by Day: An Almanac, 1861–1865''. Garden City, NY: Doubleday, 1971. . p. 66〕。このとき北軍も南軍もポトマック川を敵軍に使わせないことを望んでいた。 5月8日、ウィリアムソン少佐はアキア・クリークの上陸点に砦の建設を始めた。その上陸点はフレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道の北側終着点であり、それを北軍に確保されないよう守るのが主要目的だった〔Salmon, John S. ''The Official Virginia Civil War Battlefield Guide''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2001. ISBN 0-8117-2868-4. p. 10〕。5月14日頃、リンチ大佐とルイス大尉は、バージニア州海軍のロバート・D・ソーバーン海軍中佐およびジョン・ウィルキンソン海軍大尉と共に、鉄道終着点を守るために13門の大砲を擁するアキア砲台を建設した〔。この砲台は川を支配する大砲を置くという当初任務に加えて、ポトマック川の航行線を閉鎖するという脅しにもなっていた〔Scharf, 1887, p. 96〕。5月10日、南軍当局がリー将軍をバージニアの南軍を指揮する者に指名した〔Long, 1971, p. 73〕。ダニエル・ラッグルス准将が砲台の全体指揮を執ったが、アキアではリンチ大佐の直接指揮下に入ったままだった〔Kennedy, Frances H., ed. ''The Civil War Battlefield Guide''. 2nd ed. Boston: Houghton Mifflin Co., 1998. ISBN 0-395-74012-6. p. 5〕〔Scharf, 1887, pp. 95–96〕。 アキア・ランディングの南軍砲台の存在を、北軍の砲艦USS''マウントバーノン''が初めて視認したが、''マウントバーノン''は砲台に対する攻撃を行わなかった〔。アキアの最初の砲台は水面と同じレベルにあり、鉄道の終着点を守ることが意図されていたので、南軍は偵察隊が当初選定していたように、5月29日以前に、ポトマック川とアキア・クリークの合流点の南にある崖の上に、第2の砲台を追加することで、アキアの防御を強化した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アキアクリークの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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