|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
アキレ・ラウロ号事件(アキレ・ラウロごうじけん)は、1985年に発生した旅客船乗っ取り事件である。この事件を含め、当時の一連のテロ事件はレーガン政権にカッザーフィー(カダフィ大佐)懲罰としてのリビア爆撃を決断させる要因となった。 本来は船舶の乗っ取りも「ハイジャック」であるが、日本語圏における用法を考慮し以下「シージャック」と記述する。 == シージャック事件 == 1985年10月7日、エジプトのアレクサンドリアから同国ポートサイドへと向かう航海の途中、武装したパレスチナ解放戦線の男4人が旅客船「アキレ・ラウロ号」を掌握した。 シージャック犯は乗客と乗員を人質に取りながら、船をシリアのタルトゥースへ向かわせ、当時イスラエルの収容所にいたパレスチナ解放戦線のメンバー50人の釈放を要求した。タルトゥース入港を拒否されると、シージャック犯らは車椅子に乗っていたユダヤ系アメリカ人男性乗客、レオン・クリングホーファーを銃撃し海へ突き落として殺害した。船はポートサイドへと回頭し、2日間の交渉の後、シージャック犯は自由通行許可証と引き替えに投降して船を放棄し、エジプト航空のボーイング737に搭乗してチュニジアへ向かった(因みにこの時今回のとばっちりを受けた機材は、後にエジプト航空648便ハイジャック事件で破壊されることとなる)。 10月10日、当該機はアメリカ海軍第6艦隊所属の空母サラトガから発艦した戦闘機F-14によって迎撃され、シチリア島のNATO軍シゴネラ海軍航空基地への着陸を指示された。アメリカとイタリア当局の不和の中で、シージャック犯はイタリア側により逮捕された。機上の他の乗客たち(おそらくシージャック犯のリーダーであるアブー・アッバースを含む)は引き続き目的地までのフライトを許された。当該機にコースから外れることを強要したことについて、エジプトはアメリカによる謝罪を要求したが、アメリカは異議を申し立てている。 有罪判決を受けたシージャック犯のその後は様々である。 * バッサム・アル・アスカーは1991年に仮釈放を許され、2004年2月21日に死去した。 * アフマド・マロウフ・アル・アサッディは仮釈放中の1991年、姿を消した。 * ヨゼフ・アル・モルチーは禁固30年を宣告された。1996年2月16日に12日間の賜暇を得てローマのレビビア収容所を出所した際、空路スペインへ渡ったため、現地で再逮捕、イタリアへ強制送還された。 * アブー・アッバースはイタリアの管轄区域から離れ、当事者不在のまま有罪判決を受けた。1996年、彼はシージャックと殺害について謝罪し、パレスチナ-イスラエル間の和平対話を主張したが、アメリカ政府とクリングホーファーの家族は彼の謝罪を拒絶し、彼に法の下で処罰されるよう迫った。アッバースはイラクのサッダーム・フセイン政権によって匿われていたが、2003年のイラク戦争により、フセイン政権は崩壊。米軍によってバグダードで逮捕され、2004年3月8日にアメリカによる勾留下、心臓発作を起こし死去した。 PLO(パレスチナ解放機構)はレオン・クリングホーファーの死に関与したとして提訴されたが、訴訟はPLOがクリングホーファーの娘たちに非公式に賠償金を渡すと取り下げられた。その金は名誉毀損防止同盟レオン・アンド・マリリン・クリングホーファー追悼基金の設立に用いられ、法的、政治的および経済的な手段でテロリズムと対決するのに用いられている。 事件の後もアキレ・ラウロ号は旅客船として航海を続けたが、1994年11月30日、ソマリア近海で火災が発生すると船は放棄され、12月2日に沈没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アキレ・ラウロ号事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 MS Achille Lauro 」があります。 スポンサード リンク
|