|
アグスティン・カレリ(''Agustín Calleri'', 1976年9月14日 - )は、アルゼンチン・リオ・クアルト出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス3勝を挙げたが、シングルスで6度の準優勝がある。彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップの代表選手歴が長く、2000年からアルゼンチン代表選手を務め、2006年と2008年の2度チームを「ワールドグループ」決勝戦に導いた。4大大会シングルスでは、3度の3回戦進出が自己最高成績である。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス52位。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 == 来歴 == ワインとウイスキーの販売店経営者の家庭に生まれ、4歳からテニスを始める。1995年にプロ入りした後、彼は数年間男子ツアーの下部組織の大会で長い下積み生活を送った。2000年の全仏オープンで初めて4大大会の予選会を通過し、本選で前年度準優勝者アンドレイ・メドベデフ(ウクライナ)との3回戦に勝ち進む。この後、7月のデビスカップ「アメリカン・グループ1」プレーオフ準決勝で初めて代表選手に起用された。アルゼンチンはカナダに1勝4敗で敗れたが、カレリがシングルス戦でセバスチャン・ラルーを破り、代表デビューを白星で飾った。それから全米オープンでも3回戦に進み、ここでピート・サンプラスに挑戦した。この後、カレリはデビスカップ代表選手として着実な成績を積み上げていく。 カレリが4大大会にデビューした2000年全仏オープンでは、フランコ・スキラーリがアルゼンチン人選手として久々のベスト4進出を成し遂げた。2002年から、アルゼンチンはデビスカップの「ワールドグループ」(世界最上位16ヶ国のグループ)に10年ぶりの復帰を果たす。2002年ウィンブルドンでダビド・ナルバンディアンが準優勝し、アルゼンチンの男子テニス界は一気に盛り上がりを増していく。カレリは2003年2月にATPツアーでシングルス・ダブルスの初優勝を遂げ、5月中旬のハンブルク・マスターズで準優勝を記録した。グランドスラム大会に次ぐ規模の大会で準優勝のポイントを得たことにより、彼はこの時期にシングルス自己最高位を「16位」まで上げた。 2006年のデビスカップで、アルゼンチン・チームは1981年以来25年ぶりの「ワールドグループ」決勝進出を成し遂げた。対戦相手国ロシアのホームコートであるモスクワ市内の「オリンピック・スタジアム」で、アグスティン・カレリはダビド・ナルバンディアン、ホセ・アカスソ、フアン・イグナシオ・チェラとともに決勝戦に臨んだ。1勝1敗で臨んだ第3試合のダブルス戦で、カレリとナルバンディアンのペアはマラト・サフィン&ドミトリー・トゥルスノフ組にストレート負けしてしまう。第4試合でナルバンディアンが勝った後、最終第5試合でアカスソがサフィンに敗れ、アルゼンチンは25年ぶりのチャンスを逃した。 2年後の2008年、アルゼンチンはデビスカップでスペインとの決勝戦に勝ち進んだが、ここでもカレリとナルバンディアンが第3試合のダブルス戦を落とし、フェリシアーノ・ロペスとフェルナンド・ベルダスコの組に 7-5, 5-7, 6-7, 3-6 で敗れた。第1試合をナルバンディアンが取った後、20歳のフアン・マルティン・デル・ポトロが第2試合を落とし、アルゼンチンはホームコートで波に乗れずに、またしてもデビスカップ初優勝を逃した。(2度の決勝戦の結果:2006 ・2008 ) カレリはオリンピックのアルゼンチン代表選手としても、2004年アテネ五輪と2008年北京五輪の2度出場経験がある。アテネではシングルスのみの出場であったが、北京ではシングルス・ダブルスの両方に出場した。 カレリは2010年に現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アグスティン・カレリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|