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アサデンコウとは日本の競走馬である。第34回東京優駿(日本ダービー)優勝馬。同期にはリュウズキ(皐月賞・有馬記念)・ニットエイト(菊花賞・天皇賞(秋))がいる(ちなみに、両者ともに矢倉玉男厩舎所属)。 == 戦績 == ※馬齢は旧表記とする。 1966年12月11日にデビューしたアサデンコウであったが、3歳時は2戦未勝利に終わった。 だが年が明けて4歳になると本格化し、5連勝で1967年4月30日開催の皐月賞〔この年は厩務員スト長期化の為に、NHK杯・桜花賞と同日開催となった。〕に挑んだ。 連勝中に弥生賞等を勝っており1番人気に推されたが、スタートの出遅れ〔このレースが乗り替わり初戦であった増沢末夫は、後に自身の著書『鉄人ジョッキーと呼ばれて』で、「出遅れは私のミスで、次走の乗り替えも意識した。」と語っている。〕と厩務員ストが原因の体調不良〔尤も、アサデンコウだけで無く大半の出走馬は体重大幅減での出走だった。〕で7着に敗退した。 前走着外の影響もあり5番人気となったものの、人馬共に無事出走〔皐月賞敗退の責任は取らされず、鞍上は増沢末夫のまま出走となった。〕となった中1週での東京優駿は、スタート2ハロン目がハロンタイム10秒フラット〔新潟競馬場に直線コースが出来るまで抜かれなかった程の早いタイムである。〕となる乱ペースの中、直線で同厩舎のヤマニンカップと共に抜け出し、骨折しながらも後続を振り切り1着でゴールした〔この激走劇を称え、『名馬アサデンコウの歌』(作詞 中山正男 / 作曲 遠藤実)が作られた。〕。 レース前まで好天であったが、直前に大粒の雨が降り始め雷が鳴り響いた為、『電光(デンコウ)』を味方につけた勝利と言われた。 また、後に鉄人と呼ばれる程の名騎手となる増沢末夫にとっては、騎手生活10年目で初めての重賞制覇でもあった。 しかし、アサデンコウは骨折のため表彰式に参加出来ず〔馬運車で退場した日本ダービー優勝馬はアサデンコウだけである。〕、関係者のみが参加した肝心の馬がいない記念写真が今に残っている。 その後アサデンコウは長期の休養に入ったが、結局この骨折が元で再起できずに引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アサデンコウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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