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アシヤ映画製作所(アシヤえいがせいさくしょ、1925年設立 - 同年活動停止)は、兵庫県芦屋市にかつて存在した日本の映画製作会社である。大阪の映画会社「帝国キネマ演芸」社の内紛によって生まれた会社で、同社の寿命は短命に終わったが、全従業員が従来の「帝キネ芦屋」に復帰できた。 == 略歴・概要 == 1920年(大正9年)、帝国キネマがその設立にあたり、旧天然色活動写真(天活)の「大阪支社」とともに財産とした「小阪撮影所」に加えて、1923年(大正12年)、兵庫県の現在の芦屋市に「帝国キネマ芦屋撮影所」を建設、開所した。翌1924年(大正13年)、総会屋の立石駒吉が山川吉太郎社長に近づき「帝キネ株」を1万株購入、さらには取締役の地位を確保して経営に参入し、秋には「帝国キネマ小阪撮影所長」のポストに座り、暴走の限りをつくした。 1925年(大正14年)1月14日、石井虎松をはじめとする芦屋撮影所の全従業員が辞職、同撮影所は機能停止に陥る。同年4月立石は小阪撮影所を閉鎖、小阪の全従業員を解雇、山川も立石も辞職した。立石は解雇した小阪の主力従業員を選別し、「東邦映画製作所」を設立し小阪撮影所を復活させるが、2か月で同社は解散する。 その混乱のなかで、石井以下一枚岩の元芦屋従業員(石井組)を率いて「帝国キネマ芦屋撮影所」を独立させ、設立したのが、この「アシヤ映画製作所」であった。 トラブルメーカー立石の去ったあとの新体制の「帝キネ」に、同年4月1日以来ほぼ毎週1作は作品を供給したが、半年のうちに活動は停止し、ほどなくほぼ全従業員が「帝国キネマ芦屋撮影所」へと職場復帰していく。「帝キネ」は、1925年初頭に倒産した「国活」から、「天活」以来の「巣鴨撮影所」を譲渡されて「帝国キネマ巣鴨撮影所」として稼動、1928年(昭和3年)には広大な「帝国キネマ長瀬撮影所」を新設・開所した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アシヤ映画製作所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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