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アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(? - 1516年8月24日)は、ブルジー・マムルーク朝の第24代君主(在位:1501年 - 1516年8月24日)。 1501年に即位したガウリーは斜陽の途にあったマムルーク朝を再建するため、弱体化して役立たずになっていたマムルークに代わってアビード(黒人奴隷)やズール(ヤクザ)などを徴兵してマムルーク軍団からの脱却を図った〔マムルークは15世紀頃になると弱体化して君主(スルタン)から支給される給与で生活する都市生活者に成り下がっていた〕。また銃砲など新たな装備も行なったりして諸改革に着手した。 しかしマムルーク朝はすでに外圧に苦しめられていた。インド洋にはポルトガルやサファーヴィー朝の進出が行なわれ、オスマン朝もキリキアを支配下に置いてマムルーク領のシリア北部を脅かし出した。しかし財政的にも苦しかったマムルーク朝では有効な手立てを取れずにいた。 オスマン朝のセリム1世はマムルーク朝の衰退を見てシリア遠征を決意。ガウリーもこれを迎え撃つためシリアに進出した(マルジュ・ダービクの戦い)。兵力ではガウリーの方が優勢だったが〔マムルーク軍が8万、オスマン軍は7万〕、交戦中に味方の寝返りが起こって大敗〔ガウリーと不仲だった部下の裏切りと、新兵として雇った黒人奴隷らの報酬が安すぎて士気が低かった〕。ガウリーは敗走中に戦死した。 この戦いでマムルーク軍は7万の兵力を失うという致命的な大敗を喫し、マムルーク朝は翌年にセリム1世によって滅ぼされた。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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