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アスカロンの戦い(Battle of Ascalon)は第1回十字軍の戦闘の一つ。1099年8月12日に地中海岸の町アスカロン(現在のイスラエル領アシュケロン、エルサレムの西でテルアビブとガザの中間)の周辺で戦われた。十字軍がエルサレムに迫るファーティマ朝軍を破ったが、これが第1回十字軍の最後の戦いとされている。 == 背景 == エルサレムへの進軍を続ける十字軍は、1098年初めのアンティオキア攻囲戦の時期からたびたびエジプトのファーティマ朝と交渉を続けてきたが、双方に妥協や合意は成り立たなかった。ファーティマ朝は、十字軍は東ローマ帝国に頼まれてセルジューク朝を倒しに来た軍隊と見ていた節があり、セルジューク朝が支配するシリア地方のうち、北側(シリア)を十字軍、南側(パレスチナ)をファーティマ朝で分割統治することは認めようとしていた。しかし十字軍の目的はあくまでエルサレムの聖墳墓教会であり、ファーティマ朝の提案を相手にしなかった。 こうして十字軍は1099年春にパレスチナへ侵入し、エルサレム攻囲戦の結果、7月15日にエルサレム市を陥落させた。しかし攻囲戦のさなか、ワズィール(宰相)のアル=アフダル(アル=アフダル・シャーハンシャー、al-Afdal Shahanshah)率いるファーティマ朝の大軍がエジプトを出てエルサレムに向かっているという情報が十字軍に届いており、十字軍はこの大軍の到来に神経を尖らせていた。エルサレムの陥落の時点で、ファーティマ朝の軍はエルサレムに達しておらず、シナイ半島をまだ横断中であった。この大軍がやがてエルサレムに到達し、十字軍の守るエルサレムに攻城戦を仕掛ける恐れが残っていた。 この間、十字軍はエルサレム支配を急速に固めていた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンは7月22日にエルサレムの支配者となり、王と名乗らずに「聖墳墓守護者」を名乗ることとなった。聖職者のアルヌール(Arnulf of Chocques)は8月1日にエルサレム総司教となり、8月5日には東方教会が守っていた聖遺物「真(まこと)の十字架」を手に入れていた。そこへアスカロン付近まで到達していたファーティマ朝軍から使者が到着し、十字軍に対してエルサレムからの退去を要請するアル=アフダルの信書を渡したが、十字軍側は無視した。 しかし十字軍もファーティマ朝の大軍が迫ることを無視できなかった。8月10日、隠者ピエールがラテンとギリシャの東西両教会の聖職者を集めて聖墳墓教会で祈りと行進を行っていた日、ゴドフロワは十字軍の将兵を率いてエルサレムを出て、西へ1日のところにあるアスカロンへ向かった。フランドル伯ロベールと総司教アルヌールはゴドフロワに従ってアスカロンへ向かったが、ゴドフロワとは対立状態にあるトゥールーズ伯レーモンおよびその封臣となっていたノルマンディー公ロベールは従わなかった。彼らは自らの斥候からの報告が届くまでエルサレムから動こうとはしなかった。翌日、彼らもファーティマ朝の軍隊の接近を確認し、アスカロンへ向けて出発した。途中のラムラ付近で彼らは、8月初めにナブルス攻略のためにエルサレムを出ていたタンクレードおよびゴドフロワの兄弟であるブローニュ伯ウスタシュと合流した。 アルヌールは「真の十字架」を掲げて軍を先導した。一方、レーモン・ダジール(Raymond of Aguilers)はアンティオキア攻囲戦の時に見つかった「聖槍」を掲げて行進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アスカロンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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