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アスカーニエン家または アスカニア家(独語 Askanier)は、ドイツの家系の1つ。11世紀頃から神聖ローマ帝国の領邦君主として活動、中世から近世を通してアンハルト公国を治め、一族はブランデンブルク辺境伯、ザクセン=ヴィッテンベルク、ザクセン=ラウエンブルク、リューネブルク侯領も統治していた。傍流からはロシア皇帝も輩出した。 家名の残る最も古い記録では、ドイツ・ザクセン=アンハルト州ザルツラント郡のアッシャースレーベン(独 :de:Aschersleben)城の城主であり「アッシャースレーベン公」と名乗って、その名はラテン語で書かれている〔Codex diplomaticus Anhaltinus (CDA), Teil I, Nr. 337.〕。近世以降、現在に至るアンハルト家がその主流の血族である〔アスカニア一族・アンハルト家のホームページ〕。 アスカン家とも呼ばれる〔下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年、p.324〕。 == 歴史 == 家祖は11世紀に登場したエジコ・フォン・バレンシュテットとされている。エジコはアンハルト地方の伯でもあり、この領土は子孫に受け継がれていった。 エジコの曾孫に当たるアルブレヒト熊公は父オットーからバレンシュテット伯領を相続、母エイリーケがビルング家最後のザクセン公マグヌスの娘であったことからザクセンの相続権も有していたが、ザクセンはロタール・フォン・ズップリンブルク(後の神聖ローマ皇帝ロタール3世)が領有、後にマグヌスの外孫でロタール3世の婿でもあった従兄のヴェルフ家出身のバイエルン公ハインリヒ傲慢公がザクセンを治めた。 ハインリヒ傲岸公はドイツ王コンラート3世から領土を取り上げられ、アルブレヒト熊公はザクセンを与えられたが実効支配出来ず、1142年にザクセンを放棄、傲岸公の息子ハインリヒ獅子公にザクセンを譲った。その後は東に領土を拡大、1157年に初代ブランデンブルク辺境伯に任命された。 1170年にアルブレヒト熊公は死去、ブランデンブルクは長男のオットー1世が相続、アンハルトは末子のベルンハルト3世が相続した。1180年にハインリヒ獅子公が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に帝国追放されて所領が没収された後、ザクセンはベルンハルト3世に与えられ、ザクセンの再領有を果たした。ベルンハルト3世が1212年に亡くなると、2人の息子アルブレヒト1世がザクセンを、ハインリヒ1世がアンハルトを分割相続した。アルブレヒト1世の死後にも分割相続が行われ、2人の息子ヨハン1世とアルブレヒト2世の家系はそれぞれザクセン=ラウエンブルク、ザクセン=ヴィッテンベルクに分かれていった。 一方、ブランデンブルク系は1320年に断絶、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が姻戚関係(ハインリヒ2世の母方の叔父)からブランデンブルクを領有、数度の変遷を経てホーエンツォレルン家が獲得した。アンハルト系もハインリヒ1世の死後に分割相続となり、小規模な国家群を治めている状態に過ぎなかった。 神聖ローマ帝国は度々二重選挙や対立王の擁立が行われたが、ザクセン=ラウエンブルク系とザクセン=ヴィッテンベルク系も別々の王を支持、対立関係が生じた。最終的に単独のドイツ王(1355年に皇帝に即位)となったカール4世は1356年に金印勅書を発布、皇帝選挙権を持つ選帝侯の数を7人に定め、自分の支持者であったザクセン=ヴィッテンベルク系のルドルフ1世をザクセン選帝侯とした。以後、ザクセン=ヴィッテンベルクはザクセン選帝侯領と呼ばれる。なお、ルドルフ1世の息子ヴェンツェルと孫のアルブレヒト3世は一時期ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(ヴェルフ家)とリューネブルク侯領を巡る遺産相続戦争を起こしてリューネブルク侯領を獲得したが、彼らの死後はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家が領有した。 1422年、アルブレヒト3世の死によってザクセン=ヴィッテンベルク系は断絶した。カール4世の次男の神聖ローマ皇帝ジギスムントはヴェッティン家のマイセン辺境伯フリードリヒ4世にザクセン選帝侯領を与えた。ザクセン=ラウエンブルク系も1689年にユリウス・フランツの死で断絶、リューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムに奪われ、後に甥で婿のグレートブリテン王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世が相続、ハノーヴァー朝の大陸領に組み込まれた。 こうした中、アンハルト系はアンハルト=ツェルプスト侯ヨアヒム・エルンストが統一、ハインリヒ1世以来の単独のアンハルト領が復活したが、ヨアヒム・エルンストの死後は5人の息子が共同統治した後領土を分割、アンハルトは再び分裂状態になった。長男ヨハン・ゲオルク1世の子孫はアンハルト=デッサウ侯国を統治、プロイセン王国(選帝侯に昇格したブランデンブルクも治めていた)に軍人として仕えた。レオポルト3世は1807年にオーストリア皇帝フランツ1世によってアンハルト公に昇格、孫のレオポルト4世は分裂していたアンハルト諸領を相続、アンハルト領の再統一を果たした。 その後アンハルト公国はドイツ帝国の構成国の1つとなったが、1918年に第一次世界大戦を経てドイツ革命が勃発、最後のアンハルト公ヨアヒム・エルンストは退位してアスカーニエン家のアンハルト統治は終わった。 なお、18世紀のロシア女帝エカチェリーナ2世はアンハルト系の分家に当たるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストと妃ヨハンナ・エリーザベトの娘で、母を通してロマノフ家に縁がある関係で又従兄に当たるピョートル3世と結婚、ロシアへ移り住んだ。1762年にピョートル3世をクーデターで廃位(その後暗殺)して自ら即位、彼女の子孫は1917年にロシア革命で打倒されるまでロシア帝国を統治した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アスカーニエン家」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 House of Ascania 」があります。 スポンサード リンク
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