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アスコツトとは日本の競走馬である。尾形景造(尾形藤吉)が調教師と騎手を兼務し、1934年春季の目黒帝室御賞典など特殊競走(重賞競走)5勝を含む17勝を挙げた。その引退後は馬術競技馬に転身し、「バロン西」の通称で知られる西竹一と共に総合馬術競技日本代表として1936年のベルリンオリンピックに出場した。 当時は促音の表記が許可されていなかったため、字はアスコツトであるが、発音は「アスコット」である。以下、同様に記述する。 == 経歴 == === 競走馬時代 === 宮内省下総御料牧場生産。父はチヤペルブラムプトン、母は小岩井農場がイギリスより導入した牝馬プロポンチスの直仔・種秀。1歳年上の全兄には、当時最強馬の1頭であったワカクサがいた〔尾形(1967) p.131〕。 3歳(1930年)秋に御料牧場主催のセリ市に上場され、当時尾形の雇用主であった多賀一に落札された。全体に貧弱な馬体で、脚部の状態にも不安が見られたため、高額馬には1万5000円以上の値が付く中、その落札額は8000円であった〔尾形(1967) p.135〕。調教が始められてからも尾形は大きな手応えを感じていなかったが、性格は「温順、素直で、教えることをよくのみこみ、口向きが軽い(騎乗者の指示に敏感で、操縦しやすい)」ことに非常に驚いたという〔。さらに調教が進むに連れて、尾形はアスコットの身底にある根性を観取し、当初心配されたほど脚元の状態も悪くなかったことから、兄ワカクサと同様の活躍が期待されていった〔。馬主の多賀は元宮内省で御召馬車の馭者を務めており、この頃の経験に基づき、脚元を丈夫にするため、尾形の知らないところで坂道を毎日引き歩かせていたという〔『日本の騎手』p.95〕。 1931年10月11日、通常より半年遅れの中山秋季開催でデビュー。尾形が騎乗し、初戦勝利を挙げた。翌週の新呼馬優勝戦も連勝、翌月の目黒開催を4戦2勝とし、通算7戦4勝・2着3回で当年のシーズンを終えた〔。翌1932年1月には阪神へ遠征し、鳴尾競馬場で行われた大禮記念に優勝。以後腸の具合を悪くして〔山本(2005) p.196〕、春季は8戦3勝で終えたが、秋季開催では復調し、根岸・目黒の帝室御賞典における2着2回を含む16戦6勝とした〔尾形(1967) p.136〕。最後のシーズンとなった1933年春季開催では中山四千米に優勝の後、目黒に転じて帝室御賞典に優勝、ほか目黒記念、引退レースとなった5月の横浜特別に優勝し、6戦4勝・2着2回、通算35戦17勝・2着13回の成績で競走生活から退いた〔。総獲得賞金6万8423円は、当時の最多記録であった〔山本(2005) p.197〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アスコツト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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