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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アズィーズ・サーリフ・ハサン・アッ=ヌウマーン・アル=ハッファージ(Aziz Salih Hasan Al-Numan Al-Hafaji 1943年)は、イラクの元政治家、革命指導評議会メンバー、バアス党地域指導部(RC)メンバー、党南部局長。湾岸戦争時、イラク占領下にあるクウェートの「知事」を務めた人物でもある。 == 経歴 == 1943年にイラク南部の町シャトラの農家に生まれる。早くからバアス党に入党し、党内で順調に昇進していった。1970年代に、当時農業大臣だったイッザト・イブラーヒームの知遇を得て、地元シャトラとナーシリーヤの党支局メンバーとなる。 その後、南部の地方行政を任され、ジーカール県知事、バスラ県知事を得て、1977年にカルバラー県知事に任命され、1983年にはナジャフ県知事に就任。シーア派住民による反政府運動や政権に対する抗議デモを取り締まり、シーア派イスラーム主義運動を抑え込むため、シーア派ウラマー(イスラーム法学者)の逮捕・投獄やシーア派独自の儀式「アーシューラー」の禁止、歴代シーア派イマームが埋葬されている聖廟を見せしめとして取り壊すなど、強圧的な統治を行った。 1986年には農業・土地改革大臣として入閣し、1987年まで大臣職を務めた。 1990年、イラクがクウェートに侵攻すると、90年11月14日にヌウマーンはイラク19番目の県としてイラクに併合されたクウェートの県知事に任命される。ヌウマーンはここでクウェートの「イラク化」するために同化政策を行った。 湾岸戦争開戦により、多国籍軍がクウェートに迫ると、ヌウマーンはイラクに逃亡した。その際、ヌウマーンはクウェート人捕虜をイラク国内に連行するように指示している。その後、捕虜は全員殺害されていたことがサッダーム政権崩壊後に判明しており、この件についてヌウマーンはクウェート側から戦争犯罪の容疑を掛けられている。 イラク戦争開戦により、政権が崩壊する2003年4月まで党南部局長の地位にあった。これは、南部各県での地方行政経験とシーア派住民の反抗を徹底的に取り締まったことがサッダーム・フセインに評価されたための人事であるという見方がある 2002年6月には、マイサーン県・アマーラにおいて銃撃による暗殺未遂に遭い、負傷している。この時、シーア派反体制派組織「イラク・イスラム革命最高評議会」が犯行声明を出していた。 政権崩壊後は行方を晦ましていたが、2003年5月21日、バグダードのカルフ地区でアメリカ軍によって拘束された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アズィーズ・サーリフ・アッ=ヌウマーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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