翻訳と辞書
Words near each other
・ アタテュルクのCM (トルコ興業銀行)
・ アタテュルク・オリンピック・スタジアム
・ アタテュルク・オリンピヤット・スタジアム
・ アタテュルク・オリンピヤット・スタディ
・ アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥ
・ アタテュルク国際空港
・ アタテュルク廟
・ アタナギルド
・ アタナシア (小惑星)
・ アタナシウス
アタナシウス・キルヒャー
・ アタナシウス信条
・ アタナシウス信経
・ アタナシウス派
・ アタナシオス
・ アタナシオス・クリストポロス
・ アタナシオス信条
・ アタナシオス信経
・ アタナシオス派
・ アタナシオ信条


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アタナシウス・キルヒャー : ウィキペディア日本語版
アタナシウス・キルヒャー[ちょうおん]

アタナシウス・キルヒャーAthanasius Kircher, 1601年5月2日 - 1680年11月27日)は17世紀のドイツ出身の学者、イエズス会司祭。東洋研究、地質学、医学など幅広い分野で優れた業績を残した。ヒエログリフの科学的研究と読解に取り組んだパイオニアとしても有名。また伝染病がなんらかの微小生物によって引き起こされるという考えをはじめて実証的に示し、その説にもとづいた予防法を提案した。当時のヨーロッパ学会における最高権威であったが、最晩年はルネ・デカルトなどの合理主義の立場から批判にさらされた。その後忘れられていたが、20世紀の後半になって再びその業績の先進性と多彩さが評価されるようになり、「遅れてきたルネサンス人」とも呼ばれるようになった。アリストテレス的方法論を自在に駆使しながら、同時に観察や実験を重視したという点において中世と近代をつないだ学者であるともいえる。
== 生涯 ==
9人兄弟の末っ子だったアタナシウス・キルヒャーはフルダに近いブコニアのゲイサ生まれ。このためキルヒャーの名前には(名前に出身地をつけるという古代以来の慣習に従って)「ブコニウス」「フルデンシス」などがつくことがある。彼はフルダのイエズス会学校に4年在籍した後で神学生としてイエズス会の門をたたいた。
キルヒャーにとって幸運だったのは学校に通いながら個人的にラビからヘブライ語をならった経験があることだった。司祭になるべくパーダーボルンで哲学と神学を学んでいたアタナシウスだったが、プロテスタント軍の侵攻によって1622年ケルンへ逃れることになった。このとき、凍ったライン川をわたるときに氷が割れて命をおとしかけている。(アタナシウスは何度か命の危機に瀕している。たとえばハイリゲンシュタットへの旅の途上でプロテスタント兵に捕らえられてつるし首にされかけた。)ハイリゲンシュタットでは数学だけでなくヘブライ語、シリア語を教えた。1628年に司祭に叙階され、ヴュルツブルク大学に移って倫理学と数学、ヘブライ語、シリア語を教えた。ここでアタナシウスはヒエログリフの解明にはじめて取り組んでいる。
1631年、アタナシウスの最初の著作『アルス・マグネシア』(磁性研究)が世に出たが、彼自身は三十年戦争の影響でドイツを離れざるを得なくなり、当時アヴィニョンにあった教皇庁立大学へ逃れた。1633年になると、神聖ローマ皇帝によってウィーンへ招かれ、ヨハネス・ケプラーの後継者として宮廷付学者の任命を受けた。しかし、宮廷付学者の地位を狙っていたニコラス・クロード・ファブリなる人物の策動によってこの任命が取り消されたため、ローマにとどまって研究を続けることになった。以後、その死までローマで暮らすことになる。彼はイエズス会の最高学府ローマ学院(現在の教皇庁立グレゴリアン大学)で1638年以降の数年間オリエントの諸語を教えた。講義から解放されると、彼はマラリアと伝染病の研究に取り組んだ。同時に古代の遺物の収集に熱中し、やがて自宅を「キルヒャー博物館」として公開できるほどのコレクションができた。
1661年、考古学に関心を持っていたアタナシウスはコンスタンティヌス帝が、聖エウスタキオが幻を見た場所に立てたと伝えられていた伝説の教会堂の遺跡を発見。資金を集めてそこに記念聖堂を再建した。(この聖堂には死後、彼の心臓が納められた。)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アタナシウス・キルヒャー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.