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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アデミール・ダ・コスタ(''Ademir S.F. da Costa'', 1961年3月29日 - )は、ブラジルの極真会館出身の男性空手家であり、勢和会を主宰する。身長183センチメートル、体重95キログラム。南米の星〔『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、136-137頁。〕・変則回し蹴りの使い手〔『月刊パワー空手』 パワー空手出版社、1月号、1986年、14-18頁。〕の異名を持っていた。 == 来歴 == === 早熟した才能が世界チャンピオンを破る === 1974年の13歳の時に磯部清次が管轄する極真会館ブラジル支部に入門。14歳で緑帯・15歳で茶帯・16歳で黒帯を取得し、神童と呼ばれた。1979年に18歳でブラジル選手権で優勝。同年第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。2回戦で日本代表の野口敏郎弐段を破り、3回戦でスウェーデンのナカン・ニーグレンに延長で右前蹴りで技ありを奪われ敗退したが、スピードのある攻防を見せた。しかし、大山倍達大会最高審判長は「この選手は将来必ず伸びる」と太鼓判を押した。 強くなるためにアデミールは、稽古の他に普段の生活の中でも 12~13キロの鉛を持ち歩いて空手一筋の生活をして鍛錬し続けた。1981年に来日。本部道場で3か月の内弟子修行後、同年の第14回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場。4回戦で中村誠と対戦。アデミールはトーナメント表を見たとき「それまで中村師範がたったの一発で相手を倒すのを何度も見ているし、師範は130キログラム。当時の私は68キログラム。はっきりいって泣いたよ(笑)。逃げるしかない、それしか方法がないじゃないか、と考えていた試合前日、稽古場に中村師範がやってきたんです。ニヤッと笑って、私の肩をたたき『グッド・ラック』とね。何か私を見下している感じがして、それで目が覚めた。簡単には倒されないってね〔」と語った。 当日は互いに勝ち上がって予想通り4回戦で対戦。しかし、試合は予想に反して延長2回までもつれ込む激戦となった。中村の前蹴りを下段払い〔受ける腕を耳の横まで上げ、金的をカバーしている反対の腕を脇に引いた勢いで、受ける腕は金的へ攻撃してきた技を振り払う受け技のこと。〕とフットワークで回り込みながら左後ろ回し蹴りや後ろ蹴りで反撃。左変則回し蹴り〔膝を真っ直ぐ上げ前蹴りと見せかけて、そのまま関節を返して上段回し蹴りに変化させ、相手の顔面を狙う蹴り技。〕で中村は顔面に蹴りをいれられるなど、アデミールは自分のペースで闘い、判定3対0で中村に勝った。 その時の喜びをアデミールは「中村師範はたぶん私のことを甘く見ていた上に、体力的にも100%ではなかったように思うよ。自信を持ちすぎていたこともあるだろう。本戦は案の定がガンガン攻めてきたので、私は攻撃をかわすことに終始した。たった一つの頼りはスピードだっただけだから。中村師範の戸惑っている表情が印象に残っている」と答えた。準々決勝では水口敏夫〔石川支部所属。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルのアデミール・ダ・コスタ、松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。〕と対戦。突きを決め、水口をたじろがせたアデミールだが再々延長まで持ち込まれ、試割り枚数と体重判定で惜敗したが、6位入賞を果たした。しかし、中村に勝ったことで2年後の第3回全世界選手権の優勝候補の一人として挙げられ、注目を浴びた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アデミール・ダ・コスタ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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