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アトミラル・グラーフ・シュペー : ミニ英和和英辞書
アトミラル・グラーフ・シュペー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アトミラル・グラーフ・シュペー ( リダイレクト:アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦) ) : ウィキペディア日本語版
アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)[ちょうおん]

アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) は、ドイッチュラント級装甲艦の3番艦。同艦はドイツ海軍が大戦後初めてヴェルサイユ条約の軍備制限条項の範囲内(排水量1万トン以下)に収めながらも強力な軍艦として建造した艦である。就役は1936年。英海軍はこれらの軍艦を、小粒であるが強力であると認め、ポケット戦艦とあだ名した。なお、ドイツ語の発音に従えば本来はアトミラール・グラーフ・シュペーと表記すべきだが、日本では英語読みのアドミラルで呼ばれるのが一般的である。
艦名はマクシミリアン・フォン・シュペーにちなんでいる。彼は第一次世界大戦において、青島を根拠地としたドイツ東洋艦隊司令官であった。他にグラーフ・シュペーと呼ばれる船として、第一次世界大戦において未完成に終わったマッケンゼン級巡洋戦艦の4番艦がある。
== 艦歴 ==

1932年10月1日ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠にて起工。1934年6月30日進水式を行った。艦名は、そのもととなったマクシミリアン・フォン・シュペーの孫娘により命名された。1936年1月6日に就役し、数ヶ月に及ぶ完熟訓練を大西洋で行った。翌年の1937年5月20日ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加し、日本の「足柄」やフランス海軍の「ダンケルク」らと共に各国海軍の注目を集めた。
アドミラル・グラーフ・シュペーは第二次世界大戦の開戦後通商破壊作戦に従事し、1939年9月30日を皮切りとして、南大西洋インド洋において多くの商船を沈めた。これに対し、連合国は、大西洋に7つ、インド洋に1つの、総勢で戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦16隻からなる対策部隊を編制し、通商破壊艦の探索にあたった。
9月3日、ドイツのイギリス、フランスへの宣戦布告、およびフランス商船への攻撃禁止との電文を受け取る。補給艦アルトマルクとともにフリータウン西方に設定された最初の攻撃区域へと向かった。しかし、9月5日に同海域からは離れ北極海、南大西洋、あるいはインド洋へむかへ、との指令を受ける。艦長ランクスドルフは南大西洋方面へ向かうことを決めた。9月8日に赤道を通過し、アセンション島・セントヘレナ島・トリニダード島の間の海域にしばらく滞在。9月27日、ブラジル方面へ向かう。9月30日、イギリス貨物船クレメントを沈める。同船はSOSを発信しており、またアドミラル・グラーフ・シュペーも船員救助を求める無電を発している。10月3日にクレメント船員がブラジルに到着したことで、翌日には南大西洋でのドイツ軍艦の存在がイギリス側にも知られることになった。
10月5日、トウモロコシを積んだイギリス船ニュートン・ビーチを捕捉した。しばらく同行させた後、10月9日に爆破処分された。また、ニュートン・ビーチはRRR(敵水上艦に遭遇した場合の信号)を発信し、イギリスの巡洋艦カンバーランドが受信した。だがカンバーランドは無線封鎖を続行、一方カンバーランドのほうでは受信できていると思っていたフリータウンの基地では受信できていなかったという。10月7日、イギリスの貨物船アシュリーを沈めた。
10月10日、イギリス船ハントスマンを捕捉した。同船は無線を発信しかけたがアドミラル・グラーフ・シュペーからの命令で途中で停止した。ドイツ側は攪乱のためハントスマンの無電室から語情報を発信した。ただし、それを受信したものはいなかった。また、アドミラル・グラーフ・シュペー側は同船から各種書類を入手。10月17にはイギリスの機密暗号表が解読できている。ハントスマンは積荷をアルトマルクへ移された後、10月17日に沈められた。10月22日、貨物船トレヴァニオンを沈めた。
10月28日にトリスタン・ダ・クーナ島沖でアルトマルクから補給を受けるとインド洋へ向かった。だが、戦果は小型タンカー、アフリカ・シェル(11月15日に沈める)のみであり再び大西洋に戻った。
12月2日に貨物船ドリク・スター、3日にテイロアを沈めるが、両船ともそのまえに位置を発信しており貨物船ポート・チャールズによって転電された。それらにより、イギリス艦艇がアドミラル・グラーフ・シュペーを捕捉すべく展開した。
12月7日に拿捕した貨物船ストレオンスハーンより得られた情報からアドミラル・グラーフ・シュペーは次の作戦海域をラプラタ沖に決めた。
12月6日、艦長のハンス・ラングスドルフ (''Hans Wilhelm Langsdorff'' 1894-1939 熱心なプロテスタントでナチズムの信奉者ではなかった)大佐は、致命的な2つのミスを犯した。この日、ラングスドルフ艦長は夜間照明訓練を実施したのだが、これは自ら現在地を敵に教えているようなものだった。それを無灯火の艦船に目撃されたが、ラングスドルフ艦長はそれが敵の艦船だとは思わず見逃してしまった〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル〕。
1939年12月13日、アドミラル・グラーフ・シュペーはイギリス海軍G 部隊の主要艦である重巡洋艦エクゼター(''HMS Exeter''、20cm砲装備)、軽巡洋艦エイジャックス(''HMS Ajax''、15.2cm砲装備)、軽巡洋艦アキリーズ(''HMNZS Achillies''、15.2cm砲装備)の3隻に捕捉された。ラングスドルフ艦長には「敵の艦船と戦闘するなかれ」という本国からの厳命があった〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル〕が、ラングスドルフ艦長はそれを破り、ラプラタ沖海戦が勃発した。この戦闘によるアドミラル・グラーフ・シュペーの被害は甚大であった。機関の給気口には多数の砲弾が命中、艦体も数ヶ所貫通されていた〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル〕。冬季の北大西洋の激浪に耐えて本国へ帰還できる状態にはなく、ラングスドルフ艦長は中立国ならば助けてくれると考え〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル〕、最寄りの中立国であるウルグアイモンテビデオ港に艦を退避させた。前述の通り、もともと本艦は、軍艦との交戦を本国から禁じられていた。しかしウルグアイは中立国とはいえイギリスの影響力の強い国であり、またドイツからのウルグアイからの早期退去命令もあり、修理もできないまま帰国が絶望的な最後の航海に出ざるをえなかった。
停泊期間中にイギリス海軍の宣伝放送やドイツからの情報により、単独では対抗できない有力な艦隊によって脱出路を封鎖されてしまったと判断したラングスドルフ艦長は、ウルグアイ政府が提示した港からの退去期限を迎えた12月17日に明らかな負け戦によって乗組員を危険にさらすことを避けるため、乗組員をドイツ商船に移乗させアドミラル・グラーフ・シュペーを残る40名の乗組員とともにモンテビデオ港外へ出して自沈させた(乗組員は全員タグボートで退避)。ラングスドルフ艦長は艦と運命を共にしようとしたが、ラングスドルフ艦長を慕う乗員たちが「艦長を死なせたくない」と、半ば力ずくで艦から引きずり出した〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル(生存者の証言より)〕。艦を離れる間、ラングスドルフ艦長は物思いにふけっていた〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル(生存者の証言より)〕。この様子は世界に向けラジオ放送で実況された。なおドイツからは「自沈の際は遺憾なきをなせ」との指示はあったものの、ラングスドルフ艦長は自ら自沈の責任を取り、19日に逗留先であるアルゼンチンブエノスアイレスで妻へ手紙を書き残し、ハーケンクロイツ旗ではなく自沈前に回収していた軍艦旗を身体にまきつけると、ピストル自殺を遂げたのだった。
妻への最期の手紙にはこう書かれていた。
「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。私は、部下の身の安全を確保する事に奔走していたために、決断を先延ばしにしていた」と〔「ヒトラーの軍艦自沈の真相」ナショナルジオグラフィックチャンネル〕。
艦長としての役割を終えたラングスドルフ艦長をヒトラーは「臆病者」と非難したが、ラングスドルフ艦長にとっては乗組員たちの安全を確保する事のほうが大事だった。
また、ラングスドルフ艦長がアルゼンチン政府に交渉した乗組員への善処も認められず全員抑留された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 German cruiser Admiral Graf Spee 」があります。




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