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アドリアーノ・パナッタ : ミニ英和和英辞書
アドリアーノ・パナッタ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アドリアーノ・パナッタ : ウィキペディア日本語版
アドリアーノ・パナッタ[ちょうおん]

アドリアーノ・パナッタAdriano Panatta, 1950年7月9日 - )は、イタリアローマ出身の男子プロテニス選手。1976年全仏オープン男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス17勝を挙げた。身長183cm、体重81kg、右利き。
==経歴==
パナッタは1970年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップイタリア代表選手となり、1983年まで14年連続でデ杯に出場した。1972年全仏オープン1回戦で、パナッタはルーマニアイリ・ナスターゼを 1-6, 9-7, 6-4, 6-3 で破り、世界的な知名度を獲得した。この年のデビスカップで、パナッタは当地の大先輩であるニコラ・ピエトランジェリとダブルスを組む貴重な機会を得た。1973年5月、地元イタリアフィレンツェの大会で男子ツアーのダブルスに初優勝し、翌週のイギリス・ボーンマス大会でシングルス初優勝を果たす。最初期のパナッタは、単複ともナスターゼとの対戦が多かった。
1976年全仏オープンでは、準々決勝でビョルン・ボルグの大会3連覇を阻止した後、決勝でハロルド・ソロモンアメリカ)を 6-1, 6-4, 4-6, 7-6 で破り、4大大会初優勝を決めた。イタリア人のテニス選手による4大大会男子シングルス優勝は、1959年1960年に全仏選手権(当時の名称)2連覇を達成したニコラ・ピエトランジェリ以来16年ぶりであった(このパナッタの全仏優勝以降、男女を通じてイタリア人の4大大会シングルス優勝者は2010年全仏オープンの女子シングルスで優勝したフランチェスカ・スキアボーネまで出現していない)。全仏優勝を果たした1976年、パナッタはデビスカップでもイタリア・チームの初優勝に貢献した。
その後、デビスカップでは1977年1979年1980年に準優勝があり、2度目の優勝には届かなかった。他の4大大会では、ウィンブルドンでは1979年のベスト8、全米オープンでは1978年の4回戦進出が自己最高成績である。パナッタはデ杯のイタリア代表選手として史上2位となる「64勝36敗」の記録を残した後、1984年9月に地元イタリアパレルモ大会の男子ダブルス準優勝を最後に現役を退いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アドリアーノ・パナッタ」の詳細全文を読む




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