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アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann〔『Becoming Eichmann』19ページ〕、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。 戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。 == 来歴 == === 生い立ち === アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン(Adolf Karl Eichmann)。母はオーストリア系〔『オーストリアの歴史』91ページ(増谷英樹/古田善文、河出書房新社2011年刊行)〕マリア・アイヒマン(Maria Eichmann)〔『Becoming Eichmann』19ページ〕。アドルフは5人兄弟の長男で〔『ナチス親衛隊』242ページ〕〔『ヒトラーの共犯者 下』34ページ〕、長男アドルフから順に次男エミール(Emil)、三男ヘルムート(Helmuth)、長女イルムガルト(Irmgard)、四男オットー(Otto)であった〔『アイヒマン調書』3ページ〕〔『Becoming Eichmann』19ページ〕。このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した〔『アイヒマン調書』3ページ〕。 父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。信仰はプロテスタントだった。アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている〔『Becoming Eichmann』19ページ〕。1913年にアドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー帝国のリンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している〔『イェルサレムのアイヒマン』22ページ〕〔〔『Becoming Eichmann』20ページ〕。母マリアの旧姓はシェファーリング(Schefferling)といい、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳の若さで死去した。アドルフは立て続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル(Maria Zawrzel)という人物と再婚している。彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。父アドルフ・カールとは教会で知り合った。アドルフはこの継母について「熱心で非常に良心的だった」と語っている〔『Becoming Eichmann』20ページ〕〔『アイヒマン調書』3ページ〕。 オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った〔『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで 』186ページ〕(当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた)。アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった〔。なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。 父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。しかしこの会社はすぐに行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった〔『アイヒマン調書』5ページ〕。アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している〔。 その後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。さらに1928年からはスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社にあたるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている〔『アイヒマン調書』5ページ〕〔『ナチス親衛隊』242ページ〕。この会社に5年半ほど務めたが、1933年には人員削減の対象として解雇されている。アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それが災いして人員整理された」と語っている〔『アイヒマン調書』7ページ〕〔『ナチス親衛隊』242ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アドルフ・アイヒマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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