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アナスタシア皇女 : ミニ英和和英辞書
アナスタシア皇女[じょ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

皇女 : [ひめみこ, こうじょ]
 【名詞】 1. imperial princess 
: [じょ]
 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter

アナスタシア皇女 ( リダイレクト:アナスタシア・ニコラエヴナ ) : ウィキペディア日本語版
アナスタシア・ニコラエヴナ[じょ]

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年ロシア正教会によって新致命者として列聖された。
皇帝一家が埋葬された場所が長年の間、知られていなかったという事実によって後押しされ、殺害後に彼女の生存の伝説が有名となった。1991年にエカテリンブルク近郊で両親と3人の大公女の遺骨が発掘され、さらには2007年に弟のアレクセイと歳の近い姉のマリアもしくはアナスタシア、どちらか1人の大公女の遺骨も発見された結果、皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。数多く出現した偽アナスタシアの中でも最も知られているアンナ・アンダーソンは亡くなってから10年後の1994年に実施されたDNA鑑定でアナスタシアの母方の叔母の孫にあたるエディンバラ公フィリップ王配との遺伝的な繋がりが認められなかった。''、1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年ロシア正教会によって新致命者として列聖された。
皇帝一家が埋葬された場所が長年の間、知られていなかったという事実によって後押しされ、殺害後に彼女の生存の伝説が有名となった。1991年にエカテリンブルク近郊で両親と3人の大公女の遺骨が発掘され、さらには2007年に弟のアレクセイと歳の近い姉のマリアもしくはアナスタシア、どちらか1人の大公女の遺骨も発見された結果、皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。数多く出現した偽アナスタシアの中でも最も知られているアンナ・アンダーソンは亡くなってから10年後の1994年に実施されたDNA鑑定でアナスタシアの母方の叔母の孫にあたるエディンバラ公フィリップ王配との遺伝的な繋がりが認められなかった。
== 人物 ==

ロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の4人娘はいつも仲良しで、末娘アナスタシアは特に一番年の近い姉のマリアと仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。2人の姉のオリガタチアナも2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが「大きなペア」と呼ばれていたのに対し、下の2人は「小さなペア」と呼ばれていた〔Kurth(1995年) pp.88-89〕。4人はOTMAという合同のサインを結束の象徴として使用していた〔。また、アナスタシアは弟のアレクセイとも第六感を使うかのごとく、話さずとも弟の気持ちを理解出来るぐらい非常に仲が良かった。彼のビュッフェテーブルから食べ物を奪ったりするなど、いつもふざけた態度で接して弟を楽しませていた。
4姉妹の身位の呼称である大公女は元のロシア語では「Великая Княжна(ヴェリーカヤ・クニャージナ)」と呼ばれ、英語では最も一般的に「Imperial Highness」、最も正確には「Grand Princess」と訳された。「Imperial Highness」はただの殿下に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他のヨーロッパ王女よりも序列が高いことを意味していた〔Zeepvat(2004年) p.14〕。
4姉妹は刺繍編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた〔Zeepvat(2004年) p.153〕。また、祖父であるアレクサンドル3世の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした〔マッシー(1996年) p.114〕。メイドを手伝って一緒にベッド作りを行い、用事を頼む時も命令口調では無く、「すみませんが、もし差し支え無ければ、母が用事があるので来てほしいと申しております」というような言い方をしていた〔マッシー(1999年) pp.235-236〕。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁にはイコンや絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した〔マッシー(1996年) p.117〕。10代になると、冷水浴をやめて夜にフランソワ・コティ香水の入った温水のバスを使用するようになったが、アナスタシアは「ヴァイオレット」を常に愛用していた〔マッシー(1996年) pp.117-118〕。4姉妹は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった〔ラジンスキー上(1993年) p.191〕。
エカチェリーナ2世の息子、パーヴェル1世は母帝を嫌って女子の継承を禁ずるを定めた〔マッシー(1996年) p.131〕。そのためにロマノフ家の親戚はツェサレーヴィチとなる息子の誕生を望んでいた。アナスタシア出生のニュースを聞いたニコライ2世の母親のマリア皇太后は「アリックスがまたもや女の子を出産した! 」、ニコライ2世の上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女は「何という失望! 4人目も女の子とは! 」と述べ、両者ともに失望感を露にしている。ニコライ2世も失望を隠し切れない自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けなければならないほどであった〔マッシー(1996年) pp.131-132〕。アナスタシアが出生した時、姉のオリガは腸チフスに苦しんでいた。実はアナスタシアが生まれる直前にフランス神秘主義者、は「霊験あらたかな薬」を服用すれば必ず男子を産むことが出来ると明言し、アレクサンドラは彼の指示に忠実に従ったが、女子のアナスタシアが生まれたために予言は達成されなかった。フィリップは自分が仕えたのは既に懐妊した後だったと釈明し、次こそは必ず予言を的中させてみせると言い切り、引き続き宮中にとどまることが許された〔ラヴェル(1998年) pp.43-44〕。
彼女の名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」であり、ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬にモスクワサンクトペテルブルクで発生した暴動に参加したために投獄されていた学生達に対する恩赦を実施した〔。名前のもう一つの意味は「復活」であり、彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった。
1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った〔ラヴェル(1998年) p.50〕。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった〔植田(1998年) p.91〕。
マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた〔ラヴェル(1998年) p.55〕。ニコライ2世の母親のマリア皇太后と彼女に似た性格の上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。弟の中で唯一存命していたミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に至ってはほとんど一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格である下の妹のオリガ・アレクサンドロヴナ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた〔。外の世界と引き離された4人姉妹にとってコサックの護衛兵や''『スタンダルト』''号の乗組員達達は数少ない気軽に話が出来る相手であった。他の人間とも接する機会を与える必要性を感じていたオリガ・アレクサンドロヴナは毎週土曜日はサンクトペテルブルクからやって来てアレクサンドラを説得し、彼女達を町に連れ出した。まず叔母と4人娘はサンクトペテルブルク行きの汽車に乗り、にて祖母のマリア皇太后と昼食をともにし、その後にオリガ・アレクサンドロヴナの邸に行ってそこで他所から来た若い人々と一緒に遊んだ。この若い叔母は30年以上も後に「姪達は寸時も惜しむかのように楽しんでいました。特に私の可愛い名付け娘のアナスタシアはそうでした。私の耳には部屋中に響く彼女の明るく弾んだ笑い声がまだ残っています。ダンスを踊ったり、音楽を聴いたり、ゲームに興じたり、彼女は心ゆくまで没入し、楽しんでいました」と回想している〔マッシー(1999年) pp.242-243〕。
末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、マスメディア貴族の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、ひんしゅくを買う他はほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、ロシア革命を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない〔ラヴェル(1998年) p.56〕。
ただ、多くの証人達がアナスタシアは「お転婆娘だった」と語っている。家族からは「反抗児」とか「道化者」と呼ばれていた〔マッシー(1999年) p.234〕。アナスタシアの遊び友達でエカテリンブルクでニコライ2世一家と一緒に殺害された皇室主治医エフゲニー・ボトキンの息子、グレブ・ボトキンは彼女の外見の特徴について「少し赤みがかった金髪で、背は低く、顔の造作は不揃いで、鼻がやや長過ぎ、口幅がかなり大きかったが、顎の形は整っており、父親譲りの実に美しい明るい青い瞳をしていた」と記憶しており、また、3冊の本と何百もの手紙の中で「最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移す」「独裁的で、他人が自分のことをどう思っているかについては無関心だった」という印象を述べ、「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と評している〔ラヴェル(1998年) pp.56-57〕〔マッシー(1999年) p.236〕。グレブ・ボトキンの姉、タチアナ・ボトキナは「きらきら光る青い瞳」を持った「活発だがちょっと粗暴で、いたずら好きな少女」であり、「眼の片隅から相手の顔を横目で盗み見るようにして笑っていた」と回想している〔。フランス語家庭教師を務めたは「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。喜劇の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている〔ラヴェル(1998年) p.59〕。女官侍女)のも物真似が非常に上手く、喜劇女優としての才能があったと評している。
アナスタシアはよく木登りをしたが、降りるように言われても、父親から叱られるまで降りようとはしなかった〔マッシー(1999年) p.235〕。頬が真っ赤に染まるほど強く叩かれても泣かない子供であったが、ポーランドにある皇室私有地で家族で雪合戦をして遊んでいる時に、雪玉の中に石を入れて投げてそれが姉タチアナの顔面に命中し、彼女を押し倒した時には驚きのあまり声をあげて泣き出してしまい、何日もそのショックを引きずった〔。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たるニーナ・ゲオルギエヴナは「邪悪だと言って良いぐらいに意地悪だった」と語っており、ニーナの方が遅く生まれたのにアナスタシアより背が高いことに怒っていたと回想している〔King, Wilson(2003年) p.50〕。アナスタシアを可愛がった叔母のオリガ・アレクサンドロヴナも「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している〔。サンクトペテルブルクのオペラハウスに招待されたアメリカ合衆国のベストセラー作家外交官の妻でもあるは「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入ったチョコレートを食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している〔ラヴェル(1998年) p.62〕。しかし、4人娘の養育を担当したにはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした〔Rappaport(2014年) p.94〕。また、彼女は「年少のアナスタシアは今までに見てきた子供達の中で最も愛敬があった」とも述べている。
エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う外反母趾に悩まされていた〔Kurth(1995年) p.106〕。また、背中の筋肉も弱く、週2回のマッサージ治療が施されたが、それを嫌がってよくベッドの下や戸棚の中に隠れていた〔Mironenko, Maylunas(1997年) p.327〕。
趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さなかったと言われている〔ラヴェル(1998年) p.58〕。アナスタシアは1914年10月28日に愛機を椅子に固定し、鏡に映った自分の姿を撮影する形で「自撮り」した写真を「鏡を見ながら自分の写真を撮ってみたの。手が震えてとっても難しかったわ」と書いた手紙を同封して友人宛てに送った。『デイリー・メール』のリポーターは「おそらく彼女こそ自撮りを初めて行ったティーンエイジャーだろう」と推測している。日本でも彼女が撮った写真を集めた写真集「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」(ISBN 978-4897844725)が出版された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アナスタシア・ニコラエヴナ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grand Duchess Anastasia Nikolaevna of Russia 」があります。




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