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アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ : ミニ英和和英辞書 | アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ
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アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ : ウィキペディア日本語版 | アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ(、1074年 - 1158年1月3日)はヴォルィーニ公ヤロポルクと妻クニグンデ(ru)との間の娘である。ミンスク公妃(ミンスク公グレプ妻)。 ==史料上の言及== ルーシの年代記(レートピシ)には、この女性の名を記したものはなく、アナスタシヤという名は『キエフ史要(ru)』(1674年に完成したロシア最初のロシア史教本〔井桁貞義『コンサイス露和辞典』p996。また「キエフ史要」という書名の出典も同様〕)の中にのみ記されている。また年代記には、アナスタシヤの没年のみが記されている。すなわち、1158年の1月3日、午前2時にアナスタシヤは永眠し、それは先立った夫・グレプが没してから40年後であった。アナスタシヤは、キエフ・ペチェールシク大修道院において、キエフのフェオドシー(ru)の聖骨箱〔井桁貞義『コンサイス露和辞典』p909〕(ru)の隣に、夫と共に埋葬された。という記述である。また、アナスタシヤは死に際して、所有していた5つの村、チェリャヂ、その他全財産を、キエフ・ペチェールシク大修道院に遺贈した。 キエフ・ペチェールシク大修道院には、1638年に修道士アファナシー・カリノフォイスキー(ru)によって碑文が書かれた、グレプとアナスタシヤの記念碑がある。
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