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アナトーリ・リャードフ : ミニ英和和英辞書
アナトーリ・リャードフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アナトーリ・リャードフ : ウィキペディア日本語版
アナトーリ・リャードフ[ちょうおん]

アナトーリィ・コンスタンティノーヴィチ・リャードフ, ラテン文字表記:Anatoly Konstantinovich Lyadov または Liadov, Lyadoff, Liadoff など, 1855年5月11日ユリウス暦4月29日) - 1914年8月28日(ユリウス暦8月15日))は、ロシア作曲家音楽教師指揮者
== 生涯 ==
サンクトペテルブルクにおいて音楽家の一家に生まれる。マリインスキー劇場の初代首席指揮者を務めた父コンスタンティン・リャードフから、1860年から1868年まで非公式に音楽教育を受けたあと、1870年からペテルブルク音楽院ピアノヴァイオリンを学んだ。やがて器楽演奏の学習を断念して、対位法フーガの研究に熱中するが、それでもなおピアノの腕前は達者だった。リャードフの生まれついての楽才は、とりわけムソルグスキーから高い評価を受け、リャードフは「ロシア五人組」と関係するようになった。リムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置いたが、常習的欠席を理由に、1876年に除籍された。1878年には、卒業制作を完成させるべく、このクラスを再履修している。
リャードフは1878年からペテルブルク音楽院で教鞭を執り、門下にプロコフィエフミャスコフスキーグネーシンアサフィエフを擁する。1905年に院長リムスキー=コルサコフが、学生の革命熱を支持したかどで音楽院から解雇されると、リャードフも恩師が復職できるようになるまでの短期間、抗議の意思表示で辞職した。
1884年にリャードフは結婚し、これによってノヴゴロド地方に別荘を求める資格を得た。夏の間はこの地でのんびりと作曲の筆を進め、1914年に死去した際もこの地で過ごしていた。
リャードフは、同時代の音楽家から高い評価を得たほどの技術的な手腕に長じていたが、持ち前の不甲斐なさから、進歩が妨げられた。リャードフは大作を完成させたことがないということが言われているが、小品の多くはレパートリーの中で正当な地位を占めている。ディアギレフがリャードフに、1910年のシーズンに向けてロシア・バレエ団のために新作スコアを作曲するよう要求したところ、リャードフはぐずぐずしがちな気性から、とうとう依頼に応えることができなくなった。その代わり、ディアギレフがストラヴィンスキーに話を持ちかけ、提出されたのが《火の鳥》だった。
ちなみにリャードフは記憶力に優れ、いろいろな物語を語って大人たちを驚かせていた。また、画才にも優れており、その才能は生涯続き、漫画や幻想的な絵を描いて、友人たちを感嘆させた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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