翻訳と辞書
Words near each other
・ アナトール・デイブレル
・ アナトール・デミドフ
・ アナトール・ドーマン
・ アナトール・フィストゥラーリ
・ アナトール・フランス
・ アナトール・フランス (小惑星)
・ アナトール・マレー
・ アナトール・ミハイロビッチ・ステッセル
・ アナトール・ラパポート
・ アナトール・ラポポート
アナトール・リトヴァク
・ アナトール・リーベン
・ アナトール・リーヴェン
・ アナトー色素
・ アナドィリ
・ アナドリ
・ アナドルフェネリ
・ アナドルフェネル
・ アナドル・エフェスSK
・ アナドル・フェネリ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アナトール・リトヴァク : ミニ英和和英辞書
アナトール・リトヴァク[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アナトール・リトヴァク : ウィキペディア日本語版
アナトール・リトヴァク[ちょうおん]

アナトール・リトヴァクAnatole Litvak, 1902年5月10日 - 1974年12月15日) は、ロシア出身の映画監督ドイツフランスイギリスアメリカで活動した。日本ではリトバークリトヴァークとも表記される。
== 来歴 ==
出生名アナトリー・ミハイロヴィチ・リトヴァク(Анатолий Михайлович Литвак)としてロシア帝国 (現ウクライナ)のキエフで生まれた。父親はユダヤ人の銀行頭取。14歳の時にサンクトペテルブルクに移り、前衛劇場で俳優としてデビューした。その後、同地の大学で哲学と演技を学び、劇団で俳優兼助手となった。
1923年、ノルドキノ・スタジオに入り、数本の作品で脚本や美術を担当。同時に初の短編『''Tatiana''』を製作したが、同年にドイツへと渡った。
ドイツではゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の『喜びなき街』(1925年)の編集やアレキサンダー・ボルコフの助監督を務めた。その後、1930年長編『''Dolly macht Karriere ''』で映画監督としてデビュー。以後、『女人禁制』(1931年)、『今宵こそは』(1932年)を発表したが、1933年ナチス政権が誕生すると、リトヴァクはフランスへと移住。同地で『最期の戦闘機』(1935年)や『うたかたの戀』(1936年)などを発表した。
1937年アメリカへと渡り、ハリウッドに進出。数本の犯罪映画や『黄昏』(1938年や『凡てこの世も天国も』(1940年)といったロマンス映画を発表。1942年から1945年までは『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944年)などのプロパガンダ映画『''Why We Fight''』シリーズをフランク・キャプラと共同で監督した。戦後、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与された。
その後もアメリカに留まり、アカデミー監督賞にノミネートされた『蛇の穴』(1948年)やイングリッド・バーグマンを起用した『追想』(1956年)などの作品を発表した。1960年代からは再びヨーロッパに移り、バーグマンとイヴ・モンタンを起用した『さよならをもう一度』(1961年)や『将軍たちの夜』(1967年)などの作品を発表した。
1974年12月15日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アナトール・リトヴァク」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.