|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アニー・ウッド・ベサント(Annie Wood Besant, ベザントとも表記されるが発音は「bɛsənt」, 1847年10月1日 ロンドン、クラパム - 1933年9月20日 インド、アディヤール)は、イギリスの神智学徒、女性の権利(Women's rights)積極行動主義者、作家、演説家、アイルランドおよびインドの自治支援者、神智学協会第二代会長、英国フリーメーソンの国際組織レ・ドロワ・ユメー創設者〔The British Federation of the International Order of Co-Freemasonry, Le Droit Humain, founded by Annie Besant in 1902 〕、インド国民会議派議長(1917年)。 == 初期の人生 == ロンドンのアイルランド系の中流階級の家に生まれた。アイルランド人であることは常にアニーの誇りであり、大人になってからアイルランド自治運動を支援する動機となった。5歳で父親が亡くなった時、一家はほとんど文無しの状態だった。母親はハーロー校の生徒たち向けの下宿を経営して家族を養ったが、アニーまで養うことができず、友人のエレン・マリアット(海洋冒険小説の元祖フレデリック・マリアットの妹)にアニーの面倒を見てくれるように頼んだ。マリアットは承諾し、アニーに優れた教育を受けさせた。アニーはそこで社会への義務、ならびに自立した女性がなすべきことの強い意識を学んだ。また、ヨーロッパ中を旅して回り、そこでアニーは終生失うことがなかったカトリック的心構えと作法を身につけた。 1867年、19歳の時、アニーはビクトリア朝を代表する文学者サー・ウォルター・ベサント(Walter Besant)の弟でイングランド国教会福音主義派の聖職者フランク・ベサント(当時26歳)と結婚した。まもなくフランクがリンカンシャー、Sibseyの教区主管者代理になり、夫婦はSibseyに移り住み、2人の子ディグビーとメイベル(Mabel)をもうけた。しかしこの結婚は幸せではなかった。最初の諍いは、金とアニーの自立から起こった。アニーは児童向けの短編小説と論文を書いたが、既婚女性は法的に財産を所有する権利を持たなかったので、アニーの収入はすべてフランクのものとなったのである。さらに政見の違いも夫婦の溝を深めた。アニーは農園労働者の待遇改善のための支援をはじめたが、フランクはトーリー党で、地主と農業経営者の味方だった。アニーが聖餐に参加するのを拒否した時、ついに二人は破局し、アニーは娘を連れて夫の元を去り、ロンドンに戻った。 アニーは自分の信仰に疑問を持ち始め、指導的な聖職者にアドバイスを求めた。その中には、イングランド国教会カトリック派の指導者、エドワード・ボーヴァリエ・ピュゼー(Edward Bouverie Pusey)もいて、ピュゼーは率直に、アニーにたくさんの本を読むように勧めた。アニーは復縁を考え、フランクのところに戻ったが、やはり無理とわかった。フランクにとって離婚はとうてい受け入れられないもので、結局、アニーは生涯「ベサント夫人」のままだった。アニーはメイベルを引き取り、フランクからわずかながら養育費も受け取った。しかし、2人の子供の単独親権はフランクにあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アニー・ベサント」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|