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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アニー・マエ・アクアッシュ(Anna Mae Aquash、ナグセット・イースク、1945年3月27日-1975年12月)は、カナダインディアンの女性戦士、民族運動家。 ==来歴== ナグセット・イースク (アニー・マエ、またはアンナ・マエ・ピクトウ)は、カナダノバスコシア州側のミクマク族インディアン指定保留地で生まれた。両親ともミクマク族で、母親の名はマリー・エレン・ピクトウといい、実の父親フランシス・トーマス・レヴィは彼女が生まれてすぐにいなくなった。1949年、4歳のときに母親は伝統派ミクマク族のノエル・サピアと再婚し、家族は別の保留地に移った。他の部族同様、ミクマク族指定保留地は極貧地域で、タール紙を壁代わりにした電気も水もない掘立小屋でアニーは育った。 1951年、パインツリー学校、ピクトゥ・ランディング学校を経てニューグラスゴー小学校、セントジョンズアカデミーと、学校を転々とする。 1953年、8歳のときに目の結核症に罹り、その後肺結核に感染した。ノエルのもとでインディアンの伝統に触れたアニーだったが、1956年にノエルは癌で死亡した。アニーは保留地外の公立学校に入学させられたが、ここで他のインディアン同様、白人たちから激しい差別と暴力を受けた。差別は学校にいる間続いたが、学業成績は良かった。 1961年、ミルフォード高校に入学する。他のインディアン生徒が差別に耐えきれず退学していく中、アニーは学業を続けたが、この年、母親がウィルフォード・バルロフという男と駆け落ちして失踪してしまい、アニーはレベッカとメアリーの二人の妹と、弟フランシスを抱えて残された。結局アニーは学校をやめ、漁猟や日雇いのジャガイモ掘りなどの重労働をして、きょうだいで支えあった。 1962年、メイン州バーハーバーで「TRIBES」というインディアンの若者のための民族文化啓発プログラムに参加していたアニーは、合衆国ボストンに移り、仕事先の「エルビンセロー縫製工場」でジェイク・マロニーというミクマク族男性と出あい、17歳で結婚した。 1964年、6月13日にデニス、翌1965年11月11日にデボラ(デビー)の二女をもうける。ジェイクとともにノバスコシアの別のミクマク族保留地に移り、彼の叔父から伝統派の教えを受けた。 1966年、夫ジェイクが空手学校を開設。縫製工場で働きながら空手を習い、空手の教師も務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アニー・マエ・アクアッシュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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