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アバノのピエトロ アバノのピエトロ()、別名「アポノのペトルス」()または「アポネンシス」(1257年頃〔ピエトロの誕生は1246年とも1250年ともいわれている。〕〔 Premuda, Loris. "Abano, Pietro D'." in ''Dictionary of Scientific Biography.'' (1970). New York: Charles Scribner's Sons. Vol. 1: p.4-5.〕―1315年頃)は、中世イタリアの哲学者、占星術師、パドヴァ大学の医学教授である〔Kibre, Pearl & Siraisi, Nancy G. (1978) Science in The Middle Ages, ed. David Lindberg, Chicago, IL: University of Chicago Press. p. 135.〕。その名の由来となったイタリアの町、現在のアーバノ・テルメで生まれた。 を執筆したことで名声を得た。最期には異端と無神論の罪に問われて異端審問に出頭し、結審前に獄中にて死した。 ==生涯== パリで長く学び、そこで哲学と医学の博士号を得た。医業に大いに成功をおさめたが、ピエトロの謝礼はかなりの高額であった。パリでピエトロは「大ロンバルド」と呼ばれるようになった。彼はパドヴァに居を構え、そこで内科医として評判を得た。占星術師でもあった〔''Astrolabium planum in tabulis ascendens'' という重要なテキストはピエトロに帰せられている。〕ピエトロは、魔術実践の廉で告発された。具体的な告訴内容は、支払った金銭を悪魔の助力によってすべて取り戻したとか、賢者の石を所有している、というものであった。
ピエトロは研究を進め、深遠な知られざる自然についての秘密の学問に分け入り、十二分な証拠を得ると、人相学、地占術、手相術に関する著書の執筆を経て、哲学と自然学と占星術の研究へと進んだ。前二者は言うまでもないが、占星術の研究も彼にとって非常に有利なものであるとわかり、これによって彼は当代の歴代教皇たちに紹介され、学識者たちの評判を得た。パドヴァの宮殿の大広間に画かれた天文学者たちの肖像のひとつとなったこと、最も学識高いラビ、アブラハム・イブン・エズラの著作の翻訳を物したこと、さらには天文学の改良、占星術師としてピエトロを賞賛した著名な数学者レギオモンタヌスの証言、ピエトロがアルフラガヌスの書を解説した折にパドヴァで公開で行った講演、といった事例に示されるように、ピエトロが学識者のなかでも名士たるにふさわしい人物であったことは確かである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アバノのピエトロ」の詳細全文を読む
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