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アフメッド・シャー・マスード : ミニ英和和英辞書
アフメッド・シャー・マスード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アフメッド・シャー・マスード ( リダイレクト:アフマド・シャー・マスード ) : ウィキペディア日本語版
アフマド・シャー・マスード[ちょうおん]

アフマド・シャー・マスード(Ahmed Shah Massoud、ダリー語:احمد شاه مسعود Ahmad Shāh Mas'ūd、アフマド・シャー・マスウード1953年9月2日 - 2001年9月9日)は、アフガニスタン政治家。本名アフマド・シャー
アフガニスタン・イスラム国国防大臣、軍司令官、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)副大統領、国防大臣、軍司令官を歴任。死後、「アフガニスタン国家英雄」の称号を追贈された。
== 生涯 ==
パンジシール渓谷ジュンガラック村の王国陸軍大佐ドースト・ムハンマドの三男として生まれる。フランス語で教育が行われたカーブルの貴族高等中学校「リセ・エステクラール」で学んだ。
1972年、カーブル工業大学工学部建築学科に進学すると同時にイスラム青年運動に参加するが、1973年からのソビエト連邦によるアフガニスタンの衛星国化によりイスラームの抑圧が行われ、学業を断念し帰郷。1974年、クーデター失敗後、新政権側の弾圧を恐れて移住したパキスタンで、ブルハーヌッディーン・ラッバーニーイスラム主義を掲げる政党「」(イスラム協会)を設立するとそのメンバーとなり、以後も一貫してラッバーニー派として活動する。同志名マスード(「幸運なる者」の意)を名乗るのは、この頃からである。
1975年、帰国してパンジシール渓谷に本拠地を築き、1979年ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後は反ソ連軍ゲリラの司令官となり、ソ連軍にしばしば大きな打撃を与えた。ソ連軍の大規模攻撃をも撃退し、「パンジシールの獅子」と呼ばれた。1988年7月、マスードはソ連軍捕虜を自発的に解放し、ソ連軍の撤退を妨害しないことを約束した。このことはマスードに対するソ連側の心象を良くし、後にロシアが北部同盟を支援する動機ともなった。
1992年にムジャーヒディーン勢力が首都カーブルを占領し、ラッバーニー政権が誕生すると、そのもとで国防相、政府軍司令官を務めた。その後、ラッバーニー政権が崩壊しターリバーンが勢力を拡大すると、ターリバーンに対抗する勢力が結集した北部同盟の副大統領・軍総司令官・国防相となった。ターリバーンがアフガニスタンを支配すると、北部同盟の勢力圏はアフガニスタン北部山岳地帯に限られたが、領土としてはアフガニスタンの約10%、人口としては30%程度を掌握していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アフマド・シャー・マスード」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ahmad Shah Massoud 」があります。




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