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アフリカ・バンバーター : ミニ英和和英辞書
アフリカ・バンバーター[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アフリカ・バンバーター ( リダイレクト:アフリカ・バンバータ ) : ウィキペディア日本語版
アフリカ・バンバータ[ちょうおん]

アフリカ・バンバータ(''Afrika Bambaataa'' 本名:ケヴィン・ドノバン(Kevin Donovan) 1957年4月17日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク州ブロンクス区リバーサイド出身のミュージシャンDJ
黒人の創造性文化を「ヒップホップ」と名付け、ヒップホップの四大要素を提案し、さらに五番目に「知識」を加えたとされる。
== 人物・活動 ==
エレクトロファンクの先駆けであり、またヒップホップシーンにおいてクール・ハークグランドマスター・フラッシュと並ぶ、ヒップホップの創始に関わった3大DJの一人と呼ばれる重要なアーティストである。更にハウスデトロイト・テクノなどのエレクトロミュージックにも影響を与えた人物である。
1970年代から「ズール・ネイション」などでのバンド活動を行い、1974年11月ラップDJダンスブレイクダンス)、グラフィティなどの黒人の創造性文化を総称して「ヒップホップ」と名付けた(この月がヒップホップの誕生月ともされる)。その後、クラフトワークのシングル『ヨーロッパ特急(Trans-Europe Express)』に強い影響を受けて1982年に発表したシングル、『プラネット・ロックPlanet Rock)』により、ヒップホップ、ハウス、テクノの音楽シーンに多大な影響を与えた。
この『プラネット・ロック』は現在でもオールドスクールクラシックとして愛されている曲である。歌詞に日本語で「1・2・3・4(イチ・ニ・サン・シ)」と数を数えるものがあるが、これはクラフトワークのアルバム『コンピューター・ワールド』(1981年発表)に収録されている曲『ナンバーズ(Numbers)』に全く同様の日本語の表現があり、これに影響を受けたものと推測される(同曲にはプロモーションフィルムも存在し、当時のブロックパーティの模様やブレイクダンスシーンが見られる。フィルムの編集も凝っており、完成度の高いものとなっている)。
また同じ1982年に12inchにて発表された『looking for the perfect beats』についても評価が高く、多数のサンプリング例がある(2006年のLL COOL J feat. ジェニファー・ロペスの『Control Myself』など)。
Paul Winley recordsから1983年にリリースされたアルバム『DEATH MIX』には、1980年代初頭にブロンクス、ジェイムズモンロー高校で行われたパーティーでの彼のDJプレイ等の模様が収録されており、当時のシーンを知るうえで非常に貴重である。
1985年、スティーヴ・ヴァン・ザントを中心とした「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」による楽曲「サン・シティ」のレコーディングに参加。
プレイリストとしてジャクソン・ファイブリック・ジェイムスなどの曲が挙げられる。そのほかには、黒人らしからぬ音楽志向として、日本のテクノポップ・グループであるYMOの曲(マーティン・デニーのカバー曲『ファイヤークラッカー(Firecracker)』)が、それらソウル・ファンクの曲と一緒にプレイされていた。これは彼がブレイクビーツについて、特定のジャンルにこだわらなかったことを示すものである。また80年代に彼が持っていたラジオ番組でのエンディング曲は、YMOのメンバー坂本龍一のソロアルバム『B-2ユニット』収録の『ライオット・イン・ラゴス(Riot In Lagos)』であった。
80年代を通して初期のヒップホップ音楽、文化を広げる中心となった。彼はブレイクビーツのDJ方を始めた3人のうちの1人で、特に「ヒッフホップ文化の祖父」「ヒップホップ文化のアメン=ラー(神)」もしくは「エレクトロファンクの父」と呼ばる。また、ギャングのブラック・スペード団を音楽文化集団ユニバーサル・ズールー・ネイションに吸収させ、ヒップホップ文化を世界に広めたとして知られている。2007年9月27日にはロックンロールホールオブフェイムの候補として取り上げられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アフリカ・バンバータ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Afrika Bambaataa 」があります。




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