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アフリカ分割(アフリカぶんかつ)とは、1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。 1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された〔宮本p.278〕。 == 背景 == ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀のポルトガル・スペインの進出以来、ムスリム(イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれもアフリカ大陸の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった〔宮本p.282〕。支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは奴隷や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである〔。 しかし19世紀に入ると産業革命が進み、それに伴って奴隷貿易が禁止された〔宮本p.283〕。この結果、アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する〔宮本p.284〕。 当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていたが、しかし一方で、アフリカの人々はヨーロッパの人々より人種的・文明的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた〔。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(''altruism'')とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アフリカ分割」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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