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アブドゥッラティーフ(Abd al-Latif ibn Muhammad Taraghay Ulughbek, ? - 1450年5月)は、ティムール朝の第5代君主(在位:1449年 - 1450年5月)。 == 生涯 == 第4代の君主ウルグ・ベクと、彼の側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトの子として生まれる。 1447年にウルグ・ベクが即位した後、国内に多くの王位請求者が現れる。アブドゥッラティーフの従兄弟であるアラー・ウッダウラも王位請求者の一人であり、彼はガウハール・シャード(シャー・ルフの妃。アブドゥッラティーフの祖母にあたる)の支援を受けて反乱を起こした〔デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、231頁〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、87頁〕。この時にアブドゥッラティーフはアラー・ウッダウラに捕らえられるが、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラによる和平交渉の際に釈放された〔。交渉の際にアラー・ウッダウラに課された他の条件は履行されず、ウルグ・ベクは再戦の後にアラー・ウッダウラを破り、彼をマシュハドへと追いやった〔。ウルグ・ベクがマシュハドのアラー・ウッダウラに勝利した時、彼は別に軍を率いてヘラートを占領した〔。 しかし、ウルグ・ベクが国政の中心をヘラートではなくサマルカンドに据えたことを不服として、駐屯先のバルフで反乱を起こし〔、アブドゥッラティーフは父との戦いに勝利する。一度はウルグ・ベクを助命し、メッカ巡礼(ハッジ)の願い出に許可を出すが、父が出発した後に助命を撤回して死刑の判決を下し、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害した〔。 即位後はスーフィズムの聖者、修行僧を保護し、私生活においても敬虔なムスリムであったため、父とは異なりイスラームの指導者層から支持を受けた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、90頁〕。しかし、将校の多くは彼に服しておらず〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、90-91頁〕、1450年5月にウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブドゥッラティーフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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