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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーブ(Larry Shreve、本名:Lawrence Paul Shreve〔)は、カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー。 生年月日は1941年1月11日とされるが〔『東京スポーツ』2007年3月21日付「ブッチャー年齢詐称疑惑」にて、本人がIDカードを公開。〕、1936年の生年説もある〔。ギミック上の出身地はアフリカのスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。 プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。親日家としても知られ、現夫人は韓国人と日本人のハーフである〔『サンデー毎日』2007年5月27日号〕〔博士の悪童日記<2004年2月上旬~後編> 〕。 == 来歴 == ネイティブ・アメリカンの父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれる。出生時は4ポンド(約1800グラム)にも満たない小さな新生児だった。少年時代は柔道と空手を学んだ。 1961年、モントリオール地区のプロモーターであったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス(Pussycat Pikens)」、「ゼーラス・アマーラ(Zelis Amara)」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。 1960年代はカナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を獲得し、10月から11月にかけてはジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。モントリオールでは1969年にイワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングでビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った。 1970年代前半はアメリカの五大湖地区を拠点に活動。1972年6月24日には、オハイオ州アクロンにてアーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得。ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した〔。 南半球にも遠征し、1973年11月にはオーストラリアにおいてNWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった〔。ニュージーランドでは、1974年3月12日にジョン・ダ・シルバを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している。 1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部のジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975年2月21日にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を、1977年2月11日にはトニー・アトラスから同TV王座をそれぞれ奪取した。 1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区やジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエル、ブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した。ミッドアトランティックでは1983年11月24日の『スターケード』、1985年7月6日の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している〔。 また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコのWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンやブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。ブロディ最後の対戦相手はブッチャーである(1988年7月15日、ブロディ&コロンVSブッチャー&ダニー・スパイビー)。 1991年にはWCWに登場。同年10月27日の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティング、リック・スタイナー、スコット・スタイナー、エル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャック、ダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された。 以降はセミリタイア状態となるも、日本やプエルトリコを中心に、北米各地のインディー団体にも単発参戦。1994年にはニュージャージー州アトランティックシティのWWAに出場し、ジェリー・ローラーやリック・マーテルと対戦した。プエルトリコでは1996年2月10日、メイブルを破りWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得。同王座は2004年1月3日にもカーリー・コロンから奪取しており〔、これが最後のタイトル戴冠となっている〔。 2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った(それぞれ地域限定での引退であり、本人は「日本では生涯現役」と語っていたが、2012年1月2日、日本においても現役引退を表明した)。 2011年3月、プロレス界における功績をたたえ、ハードコア・レスリングのレジェンドとしてWWE殿堂に迎えられた〔。インダクター(プレゼンター)は、流血の大抗争を展開した因縁のライバル、テリー・ファンクが務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブドーラ・ザ・ブッチャー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Abdullah the Butcher 」があります。 スポンサード リンク
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