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アブル=アッバース (, )は、フランク王国カロリング朝の西ローマ皇帝、カール大帝(シャルルマーニュ)が、ときのアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードより贈られたとされる象の名。 この象の呼び名を含め、その贈与のいきさつについては、同時代に編纂されたと思われるフランク王国年代記に詳しい〔『フランク王国年代記』ラテン語原典'Annales regni francorum'' 801年、802年の項 (, Monumenta Germaniae Historica 版)〕〔 『フランク王国年代記』英訳()〕。また、アインハルトの『』にも「象」の贈物について、事実を違えて略述されている〔『カール大帝伝』英訳()〕〔『カール大帝伝』英訳()〕。また、『カール大帝行伝』(''Gesta Caroli Magni'')にも記述があるが、これはより後年に編纂された作品である〔『カール大帝行伝』英訳( )。〕)。ただ、アッバース朝側の記録には、そうした一連の事実は伝わっていない〔, "Chroniclers of the 'Abbasid caliphate, on the other hand, never mentioned these interactions"〕。 ==当時代の記録== ===中近東からヨーロッパへ=== ハールーン・アッ=ラシード から進呈された生きた象の運搬は、カール大帝の王命を帯びてバグダードに行きフランク王国に帰還する使節、ユダヤ人イザーク ()の手にゆだねられた。(以下、「イザーク」はじめ、人名はラテン読みではなくドイツ読みを用いる)。 『フランク王国年代記』によれば、カール大帝は、ときを遡ること4年(つまり797年)にバグダードに座するハールーン・アッ=ラシード へイザークを含む3人の使節団を派遣していたが、801年になって、かれら3人の消息をイスラーム教圏側の使者のつてより知ることとなった。報によれば、イザークは象を託されて帰途についたものの、のこるラントフリートとジギムントは死んだという〔。報せをもたらした使者のひとりはハールーンが差し遣わした者だったが、もうひとりはアフリカ(アグラブ朝イフリーキヤ)の総督からの使者であった〔〔, "..and the envoy of Emir Abraham, who ruled on the border of Africa in Fustât"; , "Harun al-Rashid, emir al Mumenin.. appointed Ibrahim ibn al'Aghlab governor of Africa about 800. Fustât, his place of residence is Abbasiya near Kairwan in southern Tunis.."〕。 これを聞くやカール大帝は、エルカンバルトという名の書記官〔〕を リグーリア州 (ジェノヴァ市のある州) に派遣して、その象などの荷を搭載するための船団を手配させた〔。 史書いわく、このときイザークは、アフリカを経由したが〔、研究家によってその精密な航路の再現が試みられており、エジプト沿岸にそって、イフリーキヤを経由し、 その王都カイルーアン(現今のチュニジアに所在)に座する前述のイブラーヒーム総督からの援助をあるいは受けながら、同国の港カルタゴを出港し、地中海を渡り、イタリアへたどりついたとの仮説がたてられている〔 (2003年にアーヘンで開催された展示会の付属カタログのうちの一篇)にあるが、カルタゴ経由を提唱したという説明は: , quote: "The motives for Issac's particular route from Baghdad to Carthage, via ship from Carthage to Protovenere (near Genoa, and north via Vercelli and St. Bernard's pass to Aachen, are illuminated (I. D.) |2683"に短く書き留められている。〕〔ISBN 0-06-079706-1 (この書籍も、を参考文献としいている。)〕。 ともあれ、『フランク王国年代記』によれば、「ユダヤ人イザークは象を伴いアフリカより帰還し()」〔、ポルトヴェーネレ (ジェノヴァ市ちかく)に801年10月、帰港した〔''Annales regni francorum'' Anno 801 (, Monumenta Germaniae Historica 版)〕〔。しかし冬が迫るためヴェルチェッリに留まり、翌年までアルプス越えを延期した。そしてようやく802年7月20日にカール大帝の王宮のあるアーヘンに到着した〔''Annales regni francorum'' Anno 802 (, Monumenta Germaniae Historica 版)〕〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブル=アッバース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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