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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アブー・ヤアクーブ・ユースフ( abū yūsuf ya`qūb an-nāṣr、? - 1307年)は、モロッコを支配したマリーン朝のスルターン(在位:1286年 - 1307年)。 父は先代のスルターン・アブー・ユースフ・ヤアクーブ。アブー・ユースフ・ヤアクーブとアブー・ヤアクーブ・ユースフ親子の治世は、マリーン朝に訪れた最初の繁栄期とされている〔フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、135頁〕。彼の治世にイフリーキーヤのハフス朝はマリーン朝に臣従し、マリーン朝の海軍はキリスト教国の貿易路で軍功を多く立てた〔那谷『紀行 モロッコ史』、187頁〕。そのため北アフリカにおけるマリーン朝の権威は増大し、国内を訪れる隊商と巡礼者が増加した〔。 == 生涯 == ユースフが即位した当時のマリーン朝は、臣従国である隣国ザイヤーン朝の反抗、宮廷内の権力闘争という問題を抱えていた〔那谷『紀行 モロッコ史』、185頁〕。父ヤアクーブの治世末期にはカスティーリャ王国との関係は改善され〔那谷『紀行 モロッコ史』、188頁〕、1285年に両国の間に和平が締結されていた〔フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、138頁〕。ユースフは即位直後、モロッコ南部で起きた反乱の鎮圧とザイヤーン朝の攻撃に兵力を割き、イベリア半島での積極的な軍事活動は行われなかった〔。 1291年にカスティーリャ王サンチョ4世が和平協定を破棄したため、再びイベリア半島への出兵が行われた〔。しかし、イベリア遠征では確たる成果を挙げることができず、イベリアでの軍事活動を停止してザイヤーン朝への攻撃を再開した〔那谷『紀行 モロッコ史』、186頁〕〔。ザイヤーン朝支配下の多くの都市がマリーン朝の占領下に入り、1299年にザイヤーン朝の首都トレムセンを包囲した。トレムセンは容易に陥落せず、攻めあぐねたユースフはトレムセンの近郊にアル・マンスーラという急造の都市を建設した〔〔フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、143頁〕。 宮廷内では、ハージブ(侍従)のハリーファ・アクバルを初めとするユダヤ教徒の一族ラッカーサ家と、他の廷臣との間に権力闘争が起きていた〔私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、110頁〕。ハリーファ・アクバルは宮廷において最有力者としての地位を確立したが〔R.イドリース「ムワッヒド朝滅亡後のマグレブ社会」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D.T.ニアヌ編, 同朋舎出版, 1992年3月)、165頁〕、おそらくは他の廷臣の働きかけを受けて〔私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、110-111頁〕、1302年にユースフはハリーファ・アクバルらラッカーサ家の人間の処刑と財産の没収を命じた〔。 1306年にナスル朝の君主ムハンマド3世によってセウタを占領される〔D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, 刀水書房, 1996年4月)、224頁〕。 1307年、ユースフはトレムセン包囲中にマンスーラの宮殿で暗殺された〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブー・ヤアクーブ・ユースフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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