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アベル・エドゥアルド・バルボ(Abel Eduardo Balbo、1966年6月1日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ州 エンパルメ・ビジャ・コンスティトゥシオン (Empalme Villa Constitucion) 出身の元同国代表のサッカー選手、指導者、解説者である。 ==略歴== 1987年に母国のニュウェルス・オールド・ボーイスでキャリアをスタートさせ、その年のリーグ優勝に貢献。引き抜かれたリーベル・プレートでも活躍し、翌シーズンからセリエAへ戦いの場を移した。ウディネーゼでの1年目、チームはセリエBに降格するが、バルボ自身は11ゴールと活躍、セリエBでは22ゴールを挙げ、得点王を獲得している。 セリエA昇格後もゴールを量産し、1993-94シーズンよりASローマへ加入。翌シーズンに加入したダニエル・フォンセカと絶妙のコンビで、この年の得点ランク2位となる22ゴールを記録した。1997-98シーズンにはキャプテンを務めるなど、若きフランチェスコ・トッティらと共にローマを牽引した。 その後移籍したパルマではあまりゴールを残せなかったものの、UEFAカップ、コッパ・イタリアの二冠を達成。復帰したローマでもスクデットを掲げている。セリエA通算117ゴールは同胞のガブリエル・バティストゥータに抜かれるまで、セリエA外国人最多記録であった。 アルゼンチン代表では、1989年のコロンビアとの親善試合でデビュー。同年のコパ・アメリカでもメンバーに選ばれている。1990年、1994年、1998年とワールドカップに3大会連続で出場。94年アメリカ大会ではクラウディオ・カニーヒア、バティストゥータらと攻撃を活性化、全試合にスタメン出場、ルーマニア戦でゴールをあげた。また、98年フランス大会では、クラウディオ・ロペスとの交代出場で、日本戦にも途中出場するなど、ワールドカップ通算7試合1得点、代表通算では37試合出場11得点をあげている。 2002年、ボカ・ジュニアーズで4試合に出場し、引退。現役時代に語っていた「サッカー選手になっていなかったら、歌手を目指していた。」〔footy - 1997.6〕との言葉通り歌手になり、もうひとつの夢をかなえた。 2007年にUEFAのコーチングライセンスを取得。その後、RAI Radio1(イタリアのFMラジオ局)でサッカー解説者となった。 2009年2月24日、ルカ・ゴッティの後任としてセリエBで下位に喘いでいたトレヴィーゾの監督に就任したが、わずか4週間後の3月18日、チームのプロフェッショナリズムの欠如を理由に辞任した。 熱心なカトリック信者としても知られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アベル・バルボ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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