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アポマトックス駅の戦い(アポマトックスえきのたたかい、)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月8日に、バージニア州アポマトックス郡のファームビル近くで起きたアポマトックス方面作戦でも最後から2番目の戦闘である。北軍はジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)が指揮する騎兵師団、南軍はリューベン・リンゼイ・ウォーカー准将が指揮する北バージニア軍砲兵隊に下馬した騎兵とマスケット銃で武装した砲兵、さらには幾らかの落伍兵の支援がある部隊が戦った。 1865年4月1日からの2日間で、ファイブフォークスの戦い、第三次ピーターズバーグの戦い、サザランド駅の戦いが続いた後で、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍は、長期にわたって守っていたピーターズバーグから撤退した。北軍はこれを時には並行し、時には後を追う形で西に向かって密に追撃した。南軍は物資や食料が不足し始めており、特に4月6日に起きたセイラーズクリークの戦いの前後で、脱走、落伍および戦闘そのもので多くの戦力を失って行った。4月7日のカンバーランド教会の戦いの後、リー軍は3夜連続で行軍を続け、北軍より少しでも前に出ようとしていた。フィリップ・シェリダン少将の指揮する北軍騎兵軍団がアポマトックス駅で南軍の輜重隊を捕獲するために、4月8日に長駆約30マイル (48 km) を馬で走り、南軍より前に出て、その退路を塞いだ。 4月8日午後2時から3時、アポマトックス駅での戦闘が始まったとき、ニューヨーク第2騎兵連隊K中隊の前衛隊が、北バージニア軍のためにリンチバーグから食料、弾薬、その他物資を積んで送られてきた無防備な列車3編成に乗り込み、その降伏を強いた。この連隊の他の兵士やアレクサンダー・ペニントン・ジュニア大佐旅団の兵士がその支援のために駅に入った。鉄道を走らせた経験のある兵士が約5マイル (8 km) 東にあったジェームズ軍の宿営所まで、その3編成の貨車を走らせた。4台目の機関車と1両か2両の貨車が脱出してリンチバーグに向かい、少なくとも1両の残された貨車が燃やされた。 南軍北バージニア軍第3軍団砲兵隊長リンゼイ・ウォーカー准将の指揮する予備砲兵隊が、駅の近く、リンチバーグ駅馬車道沿いに駐屯していた。この砲兵隊をマーティン・ゲイリー准将の指揮する約500名の騎兵が護衛し、さらにクリスピン・ディッケンソン大尉のリングゴールド大隊とデイビッド・ウォーカー大尉のオティ大隊の砲兵がマスケット銃で再装備して支援し、リングゴールド大隊のW・F・ロビンソン中尉が付近で集めた落伍兵も幾らかいた。ウォーカー准将は駅に北軍が居ることを知ると直ぐに、駅に向かっての砲撃を始めた。カスター隊は約2マイル (3.2 km) 離れた位置から、その砲声の発信源を突き止め、リンチバーグ駅馬車道近くにあったウォーカー砲兵隊の駐屯所を攻撃した。ウォーカー隊は約25門の大砲を半円状に並べて自隊を守り、さらに35ないし73門の大砲を予備に置いて、そこに集中していた。 北軍騎兵隊は補給列車を捕獲した後で、南軍の砲兵大隊とそれを支援する下馬した騎兵、武装した砲兵と工兵、さらに歩兵の落伍兵の集団を攻撃した〔歴史家のクリス・カルキンスは、マーティン・ゲイリー准将の騎兵500名が、リューベン・リンゼイ・ウォーカー准将砲兵隊にとって唯一の支援部隊であり、ウォーカーは下馬した騎兵を大砲の両側に置いた、と述べている。しかし、カルキンスは、ウォーカーの砲兵の多くがマスケット銃で武装しており、狙撃兵として行動したとも記した。この戦闘時にウォーカーの傍には正規の歩兵部隊が居なかったが、リングゴールド大隊のW・F・ロビンソン中尉が付近で集めた落伍兵がいた。 Calkins, Chris. ''The Appomattox Campaign, March 29 – April 9, 1865''. Conshohocken, PA: Combined Books, 1997. ISBN 978-0-938-28954-8. p. 154. See also Davis, Burke. ''To Appomattox: Nine April Days, 1865.'' New York: Eastern Acorn Press reprint, 1981. ISBN 978-0-915992-17-1. First published New York: Rinehart, 1959. p. 326. Marvel, William. ''Lee's Last Retreat: The Flight to Appomattox''. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2002. ISBN 978-0-8078-5703-8. pp. 147–148.〕〔歴史家のバーク・デイビスは、ゲイリーの旅団が戦闘のほぼ開始時点からその渦中にあり、砲兵隊の大砲の間に300ないし400名の小火器で武装した兵士が置かれた、と記している。 Davis, 1981 (1959), pp. 324–325.〕〔Longacre, Edward G. ''The Cavalry at Appomattox: A Tactical Study of Mounted Operations During the Civil War's Climactic Campaign, March 27 – April 9, 1865''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2003. ISBN 978-0-8117-0051-1. pp. 173–175.〕。北軍騎兵隊は、暗闇が近づく中で、何度か突撃を行っては失敗した後に、南軍が後退を始めた時にその防衛線を破り、捕まえられる限りの大砲や荷車を捕獲した。この突破が成功した後、カスター隊は逃げる南軍を追撃し、リンチバーグ駅馬車道伝いに走りながらの戦闘となり、その道路で北軍は重要な地歩を確保できた。 シェリダンは、戦闘が一段落した後に、カスター隊の疲れた兵士達を補助するために、ジョージ・クルック少将の師団を送った。シェリダンは、北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将に宛てて、この駅での襲撃と砲兵隊駐屯所で戦闘の良好な結果を知らせた。北軍は歩兵部隊の支援があれば翌朝にも南軍を包囲し潰すことができるという意見を表明していた。ジェームズ軍の指揮官エドワード・オード少将には、その第24軍団と、第25軍団の第2師団の2個旅団(アフリカ系アメリカ人部隊)に、できる限り騎兵隊近くに居るよう奨励していた。その第2師団はウィリアム・バーニー准将(名誉少将)師団であり、一時的にジョン・ギボン少将の指揮下にあった。チャールズ・グリフィン准将(名誉少将)の第5軍団には、オードの軍隊のすぐ後ろで移動して、密に配置しておくように命令し、南軍が翌朝逃げ出せなくなるとしていた〔オードは事実上シェリダンの上官であり、シェリダンはオードに対して命令を出せなかった〕。 == 背景 == === ピーターズバーグ突破 === 1865年3月28日から29日の夜に始まった北軍の攻勢により、ルイス農園の戦い、ホワイトオーク道路の戦い、ディンウィディ・コートハウスの戦いと続き、4月1日のファイブフォークスの戦いと4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いによって、グラントの北軍は遂にピーターズバーグの防衛線を突破した。同じく4月2日午後に起きたサザランド駅の戦いで、北軍のネルソン・マイルズ准将の指揮する師団がサウスサイド鉄道の最後の防衛線を突破し、南軍の供給線と退路をも遮断した。リー将軍の北バージニア軍は、4月2日から3日にかけての夜中にピーターズバーグとリッチモンド両市から脱出し、ダンビルへの行軍を開始した。その先はノースカロライナ州でウィリアム・シャーマン少将の指揮する北軍の侵攻を遅らせようとしていたジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流することが期待されていた〔Woodworth, Steven E., and Kenneth J. Winkle. ''Oxford Atlas of the Civil War''. New York: Oxford University Press, 2004. ISBN 978-0-19-522131-2. p. 326.〕〔Bearss, Edwin C., with Bryce A. Suderow. ''The Petersburg Campaign''. Vol. 2, ''The Western Front Battles, September 1864 – April 1865''. El Dorado Hills, CA: Savas Beatie, 2014. ISBN 978-1-61121-104-7.〕〔Greene, A. Wilson. ''The Final Battles of the Petersburg Campaign: Breaking the Backbone of the Rebellion''. Knoxville: University of Tennessee Press, 2008. ISBN 978-1-57233-610-0.〕〔Horn, John. ''The Petersburg Campaign: June 1864-April 1865''. Conshohocken, PA: Combined Publishing, 1999. ISBN 978-0-938289-28-9. p. 220. Retrieved February 11, 2015. 〕。 北バージニア軍の多く、地元防衛部隊と水兵の1個大隊、さらにジェファーソン・デイヴィス大統領とその閣僚達は、4月3日に北軍がピーターズバーグとリッチモンド両市に入って来る前に両市から脱出できていた。南軍はその後衛部隊がグレッグ砦とウィットワース砦、さらにマホーン砦で北軍に対して抵抗してその歩みを遅らせ、さらにサザランド駅の戦いでも懸命の遅延工作を行ったので、南軍は北軍の追撃部隊に先立って良いスタートを切れていた〔Woodworth, 2004, p. 322.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アポマトックス駅の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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