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アマトス・ビリオン(羅:Amatus Villion)ことエメ・ヴィリヨン(仏:Aimé Villion、1843年9月2日 - 1932年4月1日)はパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。1868年(明治元年)10月に来日し、神戸・京都・山口・萩・奈良などで布教活動の傍ら、キリシタンの史跡の調査研究に没頭し、記念碑を建てるなど殉教者の顕彰に努めた。 主な著書に『日本聖人 鮮血遺書』、『切支丹大名史』、『山口公会史』、『日本仏教史』がある。 == 生涯 == 1843年(天保14年)9月2日、南フランスのローヌ県リヨン近郊のチユネー村にて生まれる。実家はナポレオン1世幕僚の名門。父親は裁判官を勤め、姉と4人家族。4歳のとき母親が死亡し、家族はリヨンに移り住んだ。 リヨンの聖ヨハネ小学校を卒業後、パリの聖スルピス神学校に学び、1866年(慶応2年)5月26日に司祭叙階され、同年6月19日、パリ外国宣教会海外派遣宣教師としてマルセイユ港を出港し、香港を経て1868年(明治元年)10月、長崎に到着した。 しかし、明治政府のキリスト教禁教政策のため、1870年(明治3年)には大浦天主堂に監禁され、信徒発見以降、明治政府の迫害や弾圧(浦上四番崩れ)を受けていた3000人以上の信者達が、名古屋・金沢・萩・津和野などへ流刑されていくのを見送った。 1871年(明治4年)11月24日、24歳の時に神戸に入り、中山手カトリック教会第2代司祭となる。1875年(明治8年)、関西地方に飢饉が起こり、極貧のため捨て子が続出する。「キリスト教の神父が捨て子の面倒を見てくれる」という噂が広がり、教会の門前には毎日のように子供が捨てられた。ヴィリヨンは大量の捨て子に対処出来ず、横浜のサンモール修道会(現在の幼きイエス会)の修道女に世話を頼み、約10か月の間に65人の子供たちを横浜へ送った〔無償の愛に生きて―130年前のシスターの挑戦 61p〕。さらに神戸にも修道女を派遣するようにベルナール・プティジャンに要請し、1877年(明治10年)7月9日、ショファイユの幼きイエズス修道会の4人の修道女が来日した。 神戸で7年間過ごしたのち、1879年(明治12年)、ジェル・オーグスト・シャトロン神父を後任をとして、京都に入る。京都では日本人の心理を知るため、知恩院に通い仏教を研究したり、フランス語塾を開いて青年にフランス語を教えたりしていた。この塾の生徒には、渋沢栄一、稲畑勝太郎、林市蔵などがいた。またこの頃、東京のフランス公使館の隣に開かれた和仏学校で教えた事もあり、その時の生徒の中には西園寺公望、原敬、松岡康毅などがいた。ヴィリヨンは京都に教会を建てようと尽力し、1890年(明治23年)5月1日に聖フランシスコ・ザベリオ記念天主堂(現在の河原町教会)が完成した。 聖フランシスコ・ザベリオ記念聖堂建設の建設用地を購入し、聖堂建設工事がいよいよ着工される直前の1889年(明治22年)2月、突然、山口へ転任を命じられ、山口教会の主任司祭となった。この時期に、萩・津和野の殉教者の調査へ何度も出かけており、6年後の1895年(明治28年)11月に山口の教会を他の若手神父に任せて萩へ転任した。山口では中原中也の養祖父が信者であったので、中原家との交流もあった。萩での布教活動の傍ら、キリシタンの史跡を調査研究し、1891年(明治24年)8月には津和野に殉教者の墓「至福の碑」を建てるなど、各地に多数の石碑を建てた。またフランシスコ・ザビエルの住んでいたとされる大道寺の遺跡を発見した。 1924年(大正13年)、萩教会はパリ外国宣教会からイエズス会に移譲されたため、ヴィリヨンは神戸に引き上げた。翌年の1925年(大正14年)、奈良教会の主任司祭に着任する。1926年(大正15年)10月16日には、大道寺跡地に記念碑が建てられ除幕式が行われた。 1932年(昭和7年)に体調を崩し、「死に場所は川口教会の畳の上で」とのヴィリヨンの希望もあり〔人物による日本カトリック教会史-聖職者および信徒-75名伝 135p〕、旧川口居留地(現在の大阪市西区)にあった川口天主堂に移され、同年4月1日、一度も故郷へ帰国することなく死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エメ・ヴィリヨン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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