|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 地 : [ち] 1. (n,n-suf) earth ・ 地理 : [ちり] 【名詞】 1. geography ・ 地理学 : [ちりがく] (n) geography ・ 理 : [り] 【名詞】 1. reason ・ 理学 : [りがく] 【名詞】 1. physical science ・ 学 : [がく] 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge ・ 学協会 : [がくきょうかい] (n) study society ・ 協 : [きょう] 1. (n-suf,n-pref) cooperation ・ 協会 : [きょうかい] 【名詞】 1. association 2. society 3. organization 4. organisation ・ 会 : [かい] 1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club
アメリカ地理学協会(アメリカちりがくきょうかい、, AGS)は、地理学を職業とする者の組織として、1851年にニューヨーク市で結成された団体。協会のフェロー(会員)の大部分は、アメリカ人であるが、常に相当数のフェローが世界中から加わっている。協会は、地理学的知識の拡大を目指すとともに、そうした知識の普及、応用を通して、地理学者ばかりでなく、他の人々、とりわけ政策決定にたずさわる人々が地理学的知識を理解し、活用できることを目指し、様々な活動を展開している。アメリカ地理学協会は、アメリカ合衆国における、最も歴史が古い全国規模の地理学団体である。1世紀半に及ぶ歴史の中で、協会は特に、北極、南極、ラテンアメリカの3地域に関心を寄せてきた。協会によって支援された探検は、その遠征によって明確な科学的業績が生み出されなければならないという前提条件が、顕著な特徴 となっていた。 == 歴史 == AGSは、慈善活動家、歴史家、出版事業者、編集者など、31人のニューヨーク市民によって、創設された。創設者たちの中には、ジョージ・フォルソム (George Folsom)、ヘンリー・グリネル (Henry Grinnell)、ヘンリー・ヴァーナム・プアー、ハイラム・バーニー (Hiram Barney)、アレキサンダー・アイザック・コシール (Alexander Isaac Cotheal)、ヘンリー・イヴリン・ピエルポント (Henry Evelyn Pierrepont)、S・デ・ウィット・ブラッドグッド (S. De Witt Bloodgood)、ジョン・ロメイン・ブロッドヘッド (John Romeyn Brodhead)、ジョシュア・リーヴィット (Joshua Leavitt)、アーチボルト・ラッセル (Archibald Russell)といった人々が含まれていた。 創設者たちは共通して極地探検に関心を持っており、フランクリン探検隊の遭難により、極地で消息を絶った夫ジョン・フランクリンの捜索を求めたジェーン・フランクリン (Jane Franklin) の要請に応じる形で、AGSを組織した。1851年9月に設立憲章を起草する委員会が設けられ、10月9日にニューヨーク市の地理学・統計学図書館 (the Geographical and Statistical Library) で開かれた会合で憲章の起草が着手された。AGSが正式に創設されたのは、ニューヨーク州当局に憲章が承認された1854年12月7日であった〔Wright, John Kirtland 'The Years of Henry Grinnell', ''Geography in the Making: The American Geographical Society 1851-1951'' (1952) pp. 14-70. — George Grady Press〕。 協会は、当初「アメリカ地理学・統計学協会 (American Geographical and Statistical Society)」という名称だったが、これはニューヨーク大学の「地理学・統計学図書館」で創設集会が行なわれたことによるものかもしれない〔"New-York City". ''The New York Times''. 1853-12-15〕。1871年に憲章の修正が行なわれ、名称から「・統計学 (and Statistical)」が除去され、「アメリカ地理学協会」が正式となった〔Wright, John Kirtland 'The New Age of Discovery, ''Geography in the Making: The American Geographical Society 1851-1951'' (1952) pp. 71-111. — George Grady Press〕。 協会が当初に最も熱心に目指していたのは、政府の政策に影響を与えることであったが、1862年はじめにその第一歩が踏み出された。1月7日、公共の諸問題の現状に応じた課税制度の修正のために、特別委員会が編成された〔"The American Geographical Society: The Report of the Council upon Taxation and Finance". ''The New York Times''. 1862-01-17.〕。この委員会が取りまとめた報告書は、印刷されて会員に配布されただけでなく、国会議員その他、合衆国中の公職にある人々に送られた。協会は、国際的に結びつき始めた地理学関係組織の動きに関わり、第1回の国際地理学会議に役員1名を参加させた。 第一次世界大戦中、パリ講和会議に向けた準備にあたる学際的な諮問機関が、政府の支援を受けてAGSの主導で組織され、その本部はニューヨークの協会の施設内に設けられた。1918年に停戦が成ると、ウッドロウ・ウィルソン大統領と米国代表団は、フランスへ船で向かった。この一行には、AGSの事務局長 (Director) イザイア・バウマン (Isaiah Bowman) と、バウマンが150人の地理学者、歴史学者、経済学者、統計学者、民族学者、政治学者、国際法学者らとともに編纂したトラック3台分の地理情報が同行していた。 協会は、1930年代におけるルイーズ・アーナー・ボイド (Louise Arner Boyd) の極地探検の多くに、技術的、専門的側面から支援を提供した。ボイドは、地理学者であり写真家でもあったイザイア・バウマンと長く友人として交流したことで、自らも生涯を通して地理学と写真術に関心を持ち、その関心は彼女の数多くの探検において計り知れない価値をもつことになった。協会はボイドの著作『''The Fiord Region of East Greenland''(東部グリーンランドのフィヨルド地域)』を出版し、1934年にポーランドのワルシャワで開かれた国際地理学会議に協会の代表として彼女を派遣した。この派遣の際、ボイドは地元の専門家とともにポーランド各地を旅し、農村地域の人々の生活、仕事、週間を記録したが、その内容はその後、第二次世界大戦中から戦後にかけて劇的に変化を遂げることになるものであった。協会は、ボイドの2冊目の著書『''Rural Poland''(ポーランドの農村)』を出版した。 第一次世界大戦後、協会は全世界を100万分の1の地図で網羅する国際的な取り組みの一環として、「ヒスパニック・アメリカ (Hispanic America)」全域の地図作製という野心的事業に乗り出した。1920年から1945年まで続けられたこの事業は、最終的に107面の地図を製作したが、その総経費50万ドル以上の大部分は、私的寄付によって賄われた〔。 第二次世界大戦中、協会は合衆国政府の40以上の機関を支援した。枢軸国側の牙城となっていた東ヨーロッパの緊張緩和工作に資するため、協会は米軍情報部に現地の民族誌データを提供した。 協会の本部は、当初はワシントン・スクエアのニューヨーク大学内に置かれていた。協会の講演会は、しばしば大学の礼拝堂で開催され、1858年まで、この状態が続いた。その後、1858年12月から、クリントン・ホール (Clinton Hall) と呼ばれていた旧アストル・オペラ・ハウス (Astor Opera House) の中の2部屋が、協会本部となった〔"Opening of the New Rooms of the Geographical and Statistical Society". ''The New York Times''. 1859-02-11"〕。1866年、協会は、9丁目 (Ninth Street) に接したクーパー・スクエア (Cooper Square) のクーパー・ユニオン(Cooper Union〔正式名称を The Cooper Union for the Advancement of Science and Art といい、日本語では「クーパー・ユニオン大学」「クーパー・ユニオン美術工科大学」などとも訳される大学。〕)内に移り、その後10年間そこに留まった〔"Transfer of the American Geographical Society to the Cooper Union". ''The New York Times''. 1867-08-06.〕。1911年、協会は、156丁目との角に近いブロードウェイ3755番地に移転した。この3階建ての建物は、アーチャー・ミルトン・ハンチントン (Archer Milton Huntington) の母親が寄贈した土地に、チャールズ・プラット・ハンチントン (Charles Pratt Huntington) の設計により建設されたものである〔Mary Mitchell and Albert Goodrich, ''The Remarkable Huntingtons: Chronicle of a Marriage'' (2004) pp. 21-24. — The Budd Drive Press, ISBN 0-9749644-0-9〕。このオーデュボン・テラスの一角は、協会の所在地として最も広く知られることとなり、数多くの学者や高位の人々が訪れ、その中にはウッドロウ・ウィルソン大統領もいた。 その後も協会は、ニューヨーク市内で数々の移転を繰り返し、現在はブルックリン区コート・ストリート (Court Street) 32番地に所在している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アメリカ地理学協会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|