|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 条約 : [じょうやく] 【名詞】 1. treaty 2. pact ・ 約 : [やく] 1. (adv,n) approximately 2. about 3. some
アラーハーバード条約(アラーハーバードじょうやく、英語:Treaty of Allahabad)は、1765年8月16日にインドのアラーハーバードにおいて、イギリス東インド会社とムガル帝国との間に結ばれた条約。 ==概要== 1764年10月、ムガル帝国・アワド太守・前ベンガル太守の連合軍はブクサールの戦いでイギリス東インド会社の軍勢に完敗を喫し、1765年8月16日にロバート・クライヴは帝国の皇帝シャー・アーラム2世に以下の条項を認めさせた〔Treaty of Allahabad 〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕。 *皇帝はイギリス東インド会社に(ベンガル太守の統治する)ベンガル、ビハール、オリッサの三州に対し、ディーワーニー(州財務大臣の職務・それに付随する権限)あるいは領土に対する行政権及び徴税権を与える。 *そのかわり、イギリスは皇帝に対して、年額260万ルピーを歳幣(年金)として与える。 *皇帝は年額280万ルピーの価値があるアラーハーバードとコラーの両区域をイギリス東インド会社から割譲される。 *アワド太守はその領土を保証されるが、イギリス東インド会社にアラーハーバードとコラーの両区域を割譲しなければならない。 *アワド太守は戦時賠償としてイギリス東インド会社に500万ルピーを支払う。 ディーワーニーをアルタムガー〔アルタムガーはトルコ語で「紺色の印章(玉璽)」を意味するが、インドでは免租地を意味した。〕(免租地)してイギリスに授与することに関しては、8月12日の勅令ですでに認められていた〔〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.44〕。また、すでにイギリスがベンガル太守からザミーンダーリーが与えられていたカルカッタ周辺の24郡と収祖権を与えられていたチッタゴン、バルダマーン、ミドナープルの三郡を、改めてアルタムガーとして与える旨の勅令も出された〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.273〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アラーハーバード条約」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|