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アラビア・ペトラエア(、「岩のアラビア」)は、2世紀に設立されたローマ帝国の属州である。アラビア属州()とも称される。その領域は、かつてナバテア人の王国が存在した現在のヨルダン、シリア南部、シナイ半島、およびサウジアラビア北西部からなる。当時、北の境界はシリア属州に接し、西の境界はユダヤ属州とアエギュプトゥス(エジプト)に接していた。 この地域は、皇帝トラヤヌス(在位:98年 - 117年)の時代にローマ帝国へ編入された。トラヤヌスは外征に積極的だったので、アルメニアやメソポタミアなどローマ帝国の東方地域の多くもこの時期に征服された。その多くは次代ハドリアヌスの時代にローマの支配下を離れたが、アラビア・ペトラエアは長くローマ支配下に留まった。南の国境の砂漠地帯はアラビアの防護壁(リーメス)とも呼ばれ、その先はパルティア王国と接していた。砂漠地帯には、遊牧民のサラセン人が住んでいた。パルティア人とパルミラ人の侵入も受けたが、同じローマ帝国の国境としてレヌス川(現:ライン川)やダヌビウス川(現:ドナウ川)流域方面、北アフリカ方面に比べると、侵略を受けず平穏な期間が長かった。 この地域からは皇帝が誕生しておらず、皇位に名乗りを上げて反乱を起こす者もいなかった(ただし、ローマ皇帝ピリップス・アラブスはアラビア・ペトラエア生まれの可能性もある)。 ==地理== アラビア・ペトラエアは、地域による違いが大きかった。大部分の地域には住人は少く、都市のほとんどは北部のヨルダン川周辺に発達した。モアブ台地(現ヨルダンの一部)には年間200mmの降雨があり、比較的肥沃であった。大きな港湾は、紅海につながるアカバ湾という大きな湾の先端に位置するアカバ1箇所だった。 州都の位置については議論が分かれており、シリア属州との国境に近いボスラの1箇所だったという説と、ボスラだけでなくモアブ台地の南端に位置したペトラも加えた2箇所だったという説がある。属州総督はペトラとボスラの両方を拠点としており、どちらにいても勅令を発することがあった。アラビア・ペトラエアを併合するとき、ローマ皇帝トラヤヌスはボスラを州都として「トライアネ(Traiane )」の名を与えた。一方、 ハドリアヌスがローマ皇帝になったとき、それと同様の儀式をペトラに対して行った。ペトラはローマ第3軍団キュレナイカの拠点でもあった。 ヨルダン川周辺以外を見ると、シナイ半島の北部にはネゲヴと呼ばれる生活には厳しい乾燥地帯が広がっていた。さらに、紅海沿岸の地域は、ヒスマ(Hismā)と呼ばれる荒地が沿岸の北側まで続いており、そこは岩だらけだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アラビア・ペトラエア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Arabia Petraea 」があります。 スポンサード リンク
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