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アラリック1世 : ミニ英和和英辞書
アラリック1世[あらりっく1せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

アラリック1世 : ウィキペディア日本語版
アラリック1世[あらりっく1せい]

アラリック1世Alaric I, 360年 - 410年)は、西ゴート族の王(在位395年 - 410年)。
西ゴート族の族長の息子として生まれ、394年にローマの補助軍となっていた一族の指揮をとるようになった。しかし翌395年にローマ皇帝テオドシウス1世が死去すると、父親の後を継いで東ローマ帝国の皇帝となったアルカディウスが、西ゴート族への給金の支払いを停止した。そこで西ゴート族はアラリックを王とし、西へと略奪に向かった。
396年、西ゴート族はギリシアを守るテルモピュライの隘路、コリント地峡を、なんの抵抗もなしに通過し、コリントアルゴススパルタなどの都市を攻略し、アテネからは、多大な賠償金を得た。西ローマ帝国の将軍スティリコは海からペロポネソスに上陸して西ゴート族を追いつめようとしたが、スティリコが少し油断した隙に西ゴート族は包囲網を突破し、さらにスティリコは領土侵犯を東ローマ帝国に抗議されるにおよびやむなく退却した。こののち西ゴート族は、エピルス(現在のアルバニア)、さらにはイリュリクム(現在のボスニア・ヘルツェゴビナからハンガリーにかけて)にまで進んでいた。
皇帝アルカディウスはアラリックをイリュリクムの総司令とすることで懐柔しようとした。しかし、アラリックが狙っていたのは、もう東ローマ帝国ではなく西ローマ帝国、中でもその中心であり豊かなイタリア本土を目標としていた。一度北のドナウ川流域に出て、いくつかのゲルマン民族を吸収したのち、400年には西ゴート族はイタリアへとその兵を進めた。当時、西ローマ帝国の宮殿はミラノにあったが、皇帝ホノリウスは、さっさと宮廷を捨ててラヴェンナへと逃げ出したのである。スティリコはその時、ラエティア(ほぼ現在のスイス)でアレマンニ族と戦っていたが、この報を聞き、急遽彼らを降伏させてイタリアへと急行した。そして402年、で西ゴート軍は敗れた。アラリックは死中に活を求め、ローマを急襲しようとした。が、これも包囲されたのち逃亡することとなった。
敗走後はイリュリクムに戻って再起を図っていた。そののち、皇帝ホノリウスから、西ローマ軍にくわわるようもとめられたが、ガリア情勢が逼迫して、この企てはとりやめになり、アラリックは賠償として黄金1800kgを要求した。スティリコはそれに応じたが、ホノリウス帝がスティリコを処刑して、合意は破棄された。そこでアラリックは再度イタリアに侵入して皇帝の居城であるラヴェンナにはかまわず、ローマへと進撃して市を攻囲した。ここで和平交渉が行われたが、無礼で軽率な書簡にアラリックは怒り、410年に西ゴート軍は史上初めて、この不落をうたわれた帝国の首都を陥落させ、3日間にわたり略奪する(ローマ略奪)。その後、アッピア街道を南へと進軍したがまもなくアラリックはコゼンツァで病死した。
== 関連作品 ==

* 『ザ・ローマ 帝国の興亡』第6話「西ローマ帝国の滅亡」(BBC製作)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アラリック1世」の詳細全文を読む




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