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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ビデ : [びで] (n) bidet, (n) bidet
アリー・イブン・フサイン・ザイヌルアービディーン (アラビア語: علي بن حسين زين العابدين; 西暦658年 - 713年)はシーア派第4代イマーム。フサイン・イブン・アリーの子で、預言者ムハンマドの曾孫にあたる。ザイヌルアービディーンはシーア派のあいだで冠せられる名であり「崇拝者らの宝飾」の意。またイマーム・サッジャードとも。 == 出自と家系 == アリー・イブン・フサインは658年、マディーナに生まれた。父フサイン・イブン・アリーは大部分のシーア派ムスリムが第3代イマームと認めるムハンマドの孫である。またシーア派には、アリー・イブン・フサインの母はサーサーン朝の末帝ヤズデギルド3世の娘シャフルバヌーとする伝承がある。 このサーサーン帝室の後裔でもあるという信仰から、アリーはイブン・アル=ヒラヤタイン「最良の二つの息子」とも呼ばれる。「最良の二」とは、アラブにおけるクライシュ族と、非アラブにおけるペルシア人、なかんずくサーサーン帝室の意味である。 シーア派での伝承によれば、アリーの母は捕虜としてマディーナへ連行された。時の第2代正統カリフ・ウマルは、彼女を売ることを考えたが、アリー・イブン=アビー=ターリブはこれにかわって、彼女にムスリムのいずれかを夫として選択させ、婚資金は公金をもって賄うことを提案した。そこでウマルが同意し、彼女が選んだのがアリーの息子フサインであったとされるのである。彼女はその一人息子アリー・ザイヌルアービディーンを生んだ直後に亡くなったとされる。また祖父アリー・ブン・アビー=ターリブが亡くなったとき、アリー・ザイヌルアービディーンはおよそ2歳であった。 アリー・ザイヌルアービディーンはのち息子11人、娘4人、あわせて15人の子をなしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アリー・ザイヌルアービディーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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