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アリー・シール・ナヴァーイー : ミニ英和和英辞書
アリー・シール・ナヴァーイー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アリー・シール・ナヴァーイー ( リダイレクト:ミール・アリー・シール・ナヴァーイー ) : ウィキペディア日本語版
ミール・アリー・シール・ナヴァーイー[ちょうおん]

ミール・アリー・シール・ナヴァーイー(、Mīr ʿAlī Shīr Navā'ī、1441年2月9日〔加藤『中央アジア歴史群像』、153頁〕 - 1501年1月3日)は、ティムール朝政治家詩人
ナヴァーイーはチャガタイ語による詩作を好み、チャガタイ文学の確立者と見なされている〔羽田「ミール・アリー・シール」『アジア歴史事典』8巻、412頁〕〔堀川、帯谷「ナヴァーイー」『中央ユーラシアを知る事典』、399-400頁〕。ティムール朝を代表する文人であり、チャガタイ語を文章語として確立した功績より、ウズベキスタンではソビエト連邦からの独立前から高い評価を受けている〔。
== 生涯 ==
1441年にホラーサーン地方のヘラートで、ティムール朝の官吏ギヤースッディーン・キチュチネの子として生まれる。ティムール朝の王族フサイン・バイカラの乳兄弟として育った〔。4,5歳のときにナヴァーイーはヘラートのメクテブ(私塾)に通い、アラビア語ペルシア語を学び、サアディーの詩を暗記した〔加藤『中央アジア歴史群像』、154頁〕。ナヴァーイーとフサインは同じメクテブで学び〔、大人になった時に成功を収めた方がもう一人を助けると誓いを立てた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、102頁〕。
1447年にティムール朝の王シャー・ルフが没した後、ナヴァーイーの一家は混乱を避けてヘラートから退避する〔加藤『中央アジア歴史群像』、154頁〕。ナヴァーイーとフサインはヘラートを本拠とする王族アブル・カースィム・バーブルに仕えたが、1457年にアブル・カースィムが没すると、ナヴァーイーはマシュハドに移住した。1464年に一旦ヘラートに戻った後、サマルカンドに移住し、多くの学者や文人と交流を持った。1469年にフサインがヘラートで政権を樹立した後、ナヴァーイーはヘラートの宮廷に出仕する。
ヘラートの宮廷でナヴァーイーは印璽官を務め、1472年にアミールの地位を授与された。ナヴァーイーは多くの財産を有していたが家族を持たず、フサインや他の高官に金品を贈与し、私費を投じて福利施設を建設した〔。また、多くのモスク(寺院)、マドラサ(神学校)を建立・修復した。
ナヴァーイーは他の政治家の悪政、腐敗を厳しく弾劾したため、フサインの側近と対立した〔。かつてナヴァーイーが保護を与えていた政治家ホージャ・マジュド・アッディーン・ムハンマドはナヴァーイーの意見を聞き入れず、しばしばフサインの前でナヴァーイーを中傷していた〔久保一之「ティムール朝のその後」『中央ユーラシアの統合』収録(岩波講座 世界歴史11, 岩波書店, 1997年11月)、161-163頁〕。1487年にナヴァーイーアスタラーバードの長官として現地に赴任するが、フサインにはマジュドに財政を委任させようとする意図があった〔。1488年にナヴァーイーは許可を受けずにヘラートに戻り、辞職してヘラートに住み続けることをフサインに願い出たが許可されず、アスタラーバードに帰還した〔加藤『中央アジア歴史群像』、155頁〕。1489年以降はナヴァーイーは官職を保持しなかったが、政界でなおも影響力を保ち続けた〔。
1498年頃にナヴァーイーはメッカ巡礼を願い出たが、フサインから治安の悪化を理由に延期を勧められた〔加藤『中央アジア歴史群像』、156頁〕。1500年12月末にナヴァーイーは反乱の鎮圧から帰還したフサインをヘラート郊外で出迎えたが、馬から降りたナヴァーイーは一人で歩くことができず、2人の家臣に支えられてフサインの元に近づいた〔加藤『中央アジア歴史群像』、156-157頁〕。ナヴァーイーはフサインの手に口づけをした後に倒れこみ、ヘラートに運ばれたナヴァーイーは瀉血を施されたが効果は無く、1501年1月3日に没した〔加藤『中央アジア歴史群像』、157頁〕。死後に盛大な葬儀が行われ、フサインはナヴァーイーの自宅に3日留まって喪に服した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミール・アリー・シール・ナヴァーイー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ali-Shir Nava'i 」があります。




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